山のむこう
- 2016/07/20
- 23:12
山のあなたの空遠く、この詩は中学1年の国語の時間に習いました。カール・ブッセの詩を上田敏が日本語にしたものです。地平の向こうに何かが有る、こういう漠然とした憧れ。青年期の男によくみられる心情です。
戦前だと大陸雄飛を思い描いた青少年の漠然とした夢と中国大陸進出をもくろむ日本の国策と一致しましたから、多くの若人が中国の大地に思いをはせました。
家庭持ちで中国に渡った人の多くはもっと切実でした。日本国内に生きる場所が無かったのです。一攫千金を夢見た人などは余程に自分に自信が有ったか、さもなければ夢想家ですわ。
ですからね、私の子供時代、軍人に対する日本人一般の憎しみは大変なものでしたが、満洲に渡って行って苦労して引き上げてきた人々には同情しこそすれ、侵略者扱いをした人はいなかったように思います。
戦後世代の私達が憧れた「希望の地」はアメリカです。大きく豊で自由。無限の可能性に満ちた所だと勝手に思っていました。
昭和40年代には「アメション」という言葉が有りましたが、アメリカに小便しに行ったと嘲られる若い者でも、半年くらいいてイチオウの英会話を身に付けると、帰国後にそこそこの就職先を見つける事が出来ました。その頃の日本人は学校の英語授業のせいで英語をしゃべれる者がそれほどまでにいなかったのです。
私の大発見ですが、学校の時間割りに英語が無い国民ほど英語に巧みです。イギリスしかりアメリカしかり、カナダだってそうでがしょうが・・・。
それで必死にバイトして金を貯めてアメリカに行くんですが、労働に必要なビザなんか下りっこないですから、ウロチョロしているうちに手持ちの金は底を突き、アルバイトを探す段になって、アメリカ人って親切だけど甘くないという現実にぶつかります。
ワーキングビザが無くても仕事は見つかります。ただし1970年ころで日給3ドル。生活はおろか生存すら出来ませんから親に泣きついて仕送りしてもらいます。1度、2度、3回目には親から「バカやってないで帰ってこい」と言われてアメリカ旅行の終了です。
1970年頃にアメリカに年単位で行っていたプロレスラー達に月にいくらかかったか聞くと「多い月で千ドル、少ない月で6百ドル」という事でした。彼らは普通の人の倍は使いますからね、それでも三百から五百ドルはかかる計算になります。
当時1ドルは360円でしたが、「1ドルは日本の100円位でしかない」と歎くほど、アメリカの物価は高かったのです。
それでも観光ビザで行った者の中に何十人かに一人、この過酷な条件を乗り越えて何年という長期滞在を達成した人間がいるんです。雇い主がいてさえ観光ビザをワーキングに書き換えるのに当時でも5百ドルくらいかかりましたが、この段階まで持ちこめたらシメタもの、多くの人はそのままアメリカに定住しました。
その時代ですと、たとえ3ヶ月くらいの中期滞在しか出来ない場合でも、「行かなければ良かった」と言う人間には私は会った事が有りません。その後の人生に皆何らかの意味でプラスにしていたようです。
アメリカの何処が良い? 定住した人達の答えは、年功序列ではない、実力主義、責任の所在が明確、上司とも論争できる、労働対価をハッキリ言える、段取りの透明性が高い、そういった点を挙げます。
さて、尺八の世界ももう何時の間にか、こうなりました。
どっちが良い悪いでは無く、年齢が「格ずけ」の大きな要素だった尺八界はもう有りません。でも先輩に対する礼儀正しさでは今の若い尺八家達は私達の若い頃より上だと思います。もっともこれは自分が年をとって、若い人達から礼を受ける立場になったから、そう感じるのかも知れません。
私達の若い頃は 師匠に対しての態度に問題が有ったかも知れませんが、その分、師匠に対しての情は濃かったと思います。
プロが嘆いています。いついつリサイタルが有る、若い弟子にそう言うと「その日は他に用が有ります」とか言われるそうですよ。私達は自分が行けなくたってチケットは買いましたよ。
戦前だと大陸雄飛を思い描いた青少年の漠然とした夢と中国大陸進出をもくろむ日本の国策と一致しましたから、多くの若人が中国の大地に思いをはせました。
家庭持ちで中国に渡った人の多くはもっと切実でした。日本国内に生きる場所が無かったのです。一攫千金を夢見た人などは余程に自分に自信が有ったか、さもなければ夢想家ですわ。
ですからね、私の子供時代、軍人に対する日本人一般の憎しみは大変なものでしたが、満洲に渡って行って苦労して引き上げてきた人々には同情しこそすれ、侵略者扱いをした人はいなかったように思います。
戦後世代の私達が憧れた「希望の地」はアメリカです。大きく豊で自由。無限の可能性に満ちた所だと勝手に思っていました。
昭和40年代には「アメション」という言葉が有りましたが、アメリカに小便しに行ったと嘲られる若い者でも、半年くらいいてイチオウの英会話を身に付けると、帰国後にそこそこの就職先を見つける事が出来ました。その頃の日本人は学校の英語授業のせいで英語をしゃべれる者がそれほどまでにいなかったのです。
私の大発見ですが、学校の時間割りに英語が無い国民ほど英語に巧みです。イギリスしかりアメリカしかり、カナダだってそうでがしょうが・・・。
それで必死にバイトして金を貯めてアメリカに行くんですが、労働に必要なビザなんか下りっこないですから、ウロチョロしているうちに手持ちの金は底を突き、アルバイトを探す段になって、アメリカ人って親切だけど甘くないという現実にぶつかります。
ワーキングビザが無くても仕事は見つかります。ただし1970年ころで日給3ドル。生活はおろか生存すら出来ませんから親に泣きついて仕送りしてもらいます。1度、2度、3回目には親から「バカやってないで帰ってこい」と言われてアメリカ旅行の終了です。
1970年頃にアメリカに年単位で行っていたプロレスラー達に月にいくらかかったか聞くと「多い月で千ドル、少ない月で6百ドル」という事でした。彼らは普通の人の倍は使いますからね、それでも三百から五百ドルはかかる計算になります。
当時1ドルは360円でしたが、「1ドルは日本の100円位でしかない」と歎くほど、アメリカの物価は高かったのです。
それでも観光ビザで行った者の中に何十人かに一人、この過酷な条件を乗り越えて何年という長期滞在を達成した人間がいるんです。雇い主がいてさえ観光ビザをワーキングに書き換えるのに当時でも5百ドルくらいかかりましたが、この段階まで持ちこめたらシメタもの、多くの人はそのままアメリカに定住しました。
その時代ですと、たとえ3ヶ月くらいの中期滞在しか出来ない場合でも、「行かなければ良かった」と言う人間には私は会った事が有りません。その後の人生に皆何らかの意味でプラスにしていたようです。
アメリカの何処が良い? 定住した人達の答えは、年功序列ではない、実力主義、責任の所在が明確、上司とも論争できる、労働対価をハッキリ言える、段取りの透明性が高い、そういった点を挙げます。
さて、尺八の世界ももう何時の間にか、こうなりました。
どっちが良い悪いでは無く、年齢が「格ずけ」の大きな要素だった尺八界はもう有りません。でも先輩に対する礼儀正しさでは今の若い尺八家達は私達の若い頃より上だと思います。もっともこれは自分が年をとって、若い人達から礼を受ける立場になったから、そう感じるのかも知れません。
私達の若い頃は 師匠に対しての態度に問題が有ったかも知れませんが、その分、師匠に対しての情は濃かったと思います。
プロが嘆いています。いついつリサイタルが有る、若い弟子にそう言うと「その日は他に用が有ります」とか言われるそうですよ。私達は自分が行けなくたってチケットは買いましたよ。
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