世間とは?
- 2016/09/15
- 09:37
私は東京世田谷の上馬というところで生まれました。生まれて1年も経たずに二子玉川に移ったので、当然上馬の思い出は有りませんが、その後10年近くは、祖父が親しくしていた人達を訪ねて、しばしば上馬へ行っていましたから、私も御伴をしていましたので、昭和30年代前半の様子は良く憶えています。
上馬はと言うより世田谷は田舎でしたので空襲を受けず、その為戦前からの付き合いが生きていました。祖父が懐かしんだのも当然で、行くと、いつでも何処でも歓迎してくれました。そのうち、祖父の知り合いも1人2人と亡くなり、ある時を境にバタッと行かなくなりました。何でも未亡人を親しく訪ねてイヤな噂をたてられた事がきっかけだそうです。
当時の日本はウルサかったですね、しかも我々の代と違って、「他人が陰で何を言おうと、しょせん言葉は通り過ぎる風。人の思惑は自分の行動に何も影響しない」という感覚は戦前の人には無いですわ。「梨下に冠を正さず」とか言いますもんね。「新人類」と言われた私等には無縁のものです。
上馬の祖父の家の有ったすぐ隣に、226事件の首謀者で処刑された安藤輝三大尉の家が有りました。安藤大尉のお母さんが残っていて、安藤大尉にも可愛いがってもらった叔父達が変らず訪問すると、いつも大変喜んでくれたそうです。
世間をハバカって「ひっそりと暮らしていた」と言います。
二子玉川に越してからは、東條英機の家が近くに有ったので、何度か見に行きました。人が住んでいたのかいないのか、何時言っても窓を閉めて、ひっそりとしていました。
当時の日本庶民は誰もが東條を憎む事はなはだしく、東條の孫が学校で教師に皆の前で「東條君のお爺さんは泥棒より悪い事をした人」と解説される様な世相でした。
戦時中に東條を何かの用件で訪ねた人が「、「耐乏の時代に栗饅頭でもてなされた」というくらいまで非難の対象になっていました。そんなですから、さぞ遺族は肩身が狭かったと思います。
今ですと、アメリカにでも移住して、手記でも書くことを条件にすれば、保護は受けられたと思います。何せ戦時中はアメリカの記者にとって東條は「インタビューしたい人のナンバーワン」でしたからね、ちなみにナンバーツーは対米宣伝放送をしていた「トウキョウ・ローズ」だったそうです。「トウキョウ・ローズ」はコロンビアローズと同じく1人ではなかったそうです。
まあ何にしろ、東條は戦犯です。戦犯は非難されて当然ですが、それを言うなら非難している人の中にだって「褒められないふるまい」をしていた人だって少なくはないでしょう。戦犯は徹底的に糾弾されても仕方がないですが、その遺族がする「辛い思い」までは私は当然だとは思わないですね。
私も前は韓国でその事をしばしば持ち出されたものです。その反面、中国では40年前も今も戦時中の事はあまり話題になりません。むしろ向こうが気を使って、その話題を避けている様な気がします。
40年前は、中国はなりふり構わず日本と仲良くしないと国が壊れかねない状況でしたから、迎える側も訓練が行き届いていて、我々みたいな「友好訪問団」には、その場の空気が悪くなる様な事は一つとして口にしませんでした。
尺八を売る目的で頻繁に中国を訪れてからでも、その種の話はあまり出ないです。
ピアニストの寧峰と会食した時も、マネジャーが「1937年の生まれ」だと言うので、何処で生まれたかを聞くと、「南京」だと言うので、「それは大変でしたな」という様な話を振ると、チョット表情を変えたものの、すぐ違う話題に身をかわされました。
尺八屋の私は、別に政治活動には興味有りませんから、この種の話題は平気で振りますよ。その立ち位置は、「私の生まれる前の事で、私には何の直接責任も無い」です。「それで通るか?」と言うご質問ですが、ハイ、通ります。少なくとも私の場合は、それで通りました。
今でも同業者の中には、「中国は何をされるかわからない国だから・・・」と尺八の取引き先に中国を対象とする不安を口に出す者がいますよ。
「アナタは不安ではないですか?」と聞かれますが、補償金と決済さえシッカリ契約すれば、後のリスクは何処の国だって同じでしょう。「日本が信用できる」なんて話はアナタ、「寝言タワ言」の類ですよ。
考え方の問題ですから、何も中国と取引しなくても良い。だが、今の時代に一社単位で尺八の注文が月に10本も来て、今後も急拡大を期待できる市場がもし他にも有るなら教えて欲しい。
「虎穴に入らざれば虎子を得ず」は後漢の班超の言葉ですが、私自身は中国を「虎穴」だと思った事は有りません。また、虎児を得ても、売りとばして儲けるだけでなしに、育てたいと思っています。
「嘘だ」と言う人がいても気にしません。他人の噂は通りすぎる風。たとえそうだとしても、私は「商業主義」にも賛成なのです。
上馬はと言うより世田谷は田舎でしたので空襲を受けず、その為戦前からの付き合いが生きていました。祖父が懐かしんだのも当然で、行くと、いつでも何処でも歓迎してくれました。そのうち、祖父の知り合いも1人2人と亡くなり、ある時を境にバタッと行かなくなりました。何でも未亡人を親しく訪ねてイヤな噂をたてられた事がきっかけだそうです。
当時の日本はウルサかったですね、しかも我々の代と違って、「他人が陰で何を言おうと、しょせん言葉は通り過ぎる風。人の思惑は自分の行動に何も影響しない」という感覚は戦前の人には無いですわ。「梨下に冠を正さず」とか言いますもんね。「新人類」と言われた私等には無縁のものです。
上馬の祖父の家の有ったすぐ隣に、226事件の首謀者で処刑された安藤輝三大尉の家が有りました。安藤大尉のお母さんが残っていて、安藤大尉にも可愛いがってもらった叔父達が変らず訪問すると、いつも大変喜んでくれたそうです。
世間をハバカって「ひっそりと暮らしていた」と言います。
二子玉川に越してからは、東條英機の家が近くに有ったので、何度か見に行きました。人が住んでいたのかいないのか、何時言っても窓を閉めて、ひっそりとしていました。
当時の日本庶民は誰もが東條を憎む事はなはだしく、東條の孫が学校で教師に皆の前で「東條君のお爺さんは泥棒より悪い事をした人」と解説される様な世相でした。
戦時中に東條を何かの用件で訪ねた人が「、「耐乏の時代に栗饅頭でもてなされた」というくらいまで非難の対象になっていました。そんなですから、さぞ遺族は肩身が狭かったと思います。
今ですと、アメリカにでも移住して、手記でも書くことを条件にすれば、保護は受けられたと思います。何せ戦時中はアメリカの記者にとって東條は「インタビューしたい人のナンバーワン」でしたからね、ちなみにナンバーツーは対米宣伝放送をしていた「トウキョウ・ローズ」だったそうです。「トウキョウ・ローズ」はコロンビアローズと同じく1人ではなかったそうです。
まあ何にしろ、東條は戦犯です。戦犯は非難されて当然ですが、それを言うなら非難している人の中にだって「褒められないふるまい」をしていた人だって少なくはないでしょう。戦犯は徹底的に糾弾されても仕方がないですが、その遺族がする「辛い思い」までは私は当然だとは思わないですね。
私も前は韓国でその事をしばしば持ち出されたものです。その反面、中国では40年前も今も戦時中の事はあまり話題になりません。むしろ向こうが気を使って、その話題を避けている様な気がします。
40年前は、中国はなりふり構わず日本と仲良くしないと国が壊れかねない状況でしたから、迎える側も訓練が行き届いていて、我々みたいな「友好訪問団」には、その場の空気が悪くなる様な事は一つとして口にしませんでした。
尺八を売る目的で頻繁に中国を訪れてからでも、その種の話はあまり出ないです。
ピアニストの寧峰と会食した時も、マネジャーが「1937年の生まれ」だと言うので、何処で生まれたかを聞くと、「南京」だと言うので、「それは大変でしたな」という様な話を振ると、チョット表情を変えたものの、すぐ違う話題に身をかわされました。
尺八屋の私は、別に政治活動には興味有りませんから、この種の話題は平気で振りますよ。その立ち位置は、「私の生まれる前の事で、私には何の直接責任も無い」です。「それで通るか?」と言うご質問ですが、ハイ、通ります。少なくとも私の場合は、それで通りました。
今でも同業者の中には、「中国は何をされるかわからない国だから・・・」と尺八の取引き先に中国を対象とする不安を口に出す者がいますよ。
「アナタは不安ではないですか?」と聞かれますが、補償金と決済さえシッカリ契約すれば、後のリスクは何処の国だって同じでしょう。「日本が信用できる」なんて話はアナタ、「寝言タワ言」の類ですよ。
考え方の問題ですから、何も中国と取引しなくても良い。だが、今の時代に一社単位で尺八の注文が月に10本も来て、今後も急拡大を期待できる市場がもし他にも有るなら教えて欲しい。
「虎穴に入らざれば虎子を得ず」は後漢の班超の言葉ですが、私自身は中国を「虎穴」だと思った事は有りません。また、虎児を得ても、売りとばして儲けるだけでなしに、育てたいと思っています。
「嘘だ」と言う人がいても気にしません。他人の噂は通りすぎる風。たとえそうだとしても、私は「商業主義」にも賛成なのです。
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