大学を出てからの2年間というもの、自営業の有難さ、金はそこそこ有りましたから、キャバレーに頻繁に行っていました。今も不思議です。どこが面白かったのでしょう。振り返って考えてみても特別に楽しかった記憶は有りません。それでいて払った金だけはバカになりません。
今はキャバレーって聞きませんな。今の若い人は行かないのでしょう。そのかわりキャバクラ、クラブ(アクセントが違うのです)、パブとかが、さらに何種類ものキャラに分かれてひしめいています。
私達の子供時代。ようやく敗戦の混乱は収まってきましたが、いまだ「高度経済成長」を迎える前。昭和30年代の初めは、戦前のピーク、昭和14年とほぼ同じ経済水準でした。
テレビは無い、冷蔵庫は氷で冷やすヤツ、ステレオなんか見たこともネエ。小学校に上がるまで井戸。ガスが無いので飯はマキで炊いていました。電話は10軒に1軒、自家用車なんぞ百軒に1軒持っているかどうかです。私って東京世田谷の二子玉川の中流家庭で育ったんですよ。それでも食卓に卵が出るのは3日に1度有ったかしら。肉はもっと珍しい。服だって皆誰でもツギのあたったモノ、今ならボロキレと判定されるレベルのものを着ていました。東京でも山手線の外側にチョット離れると、こんなものでした。
そんな時代ですから、映画で見る東京の盛り場、特に夜の世界は夢の様でした。銀座、新宿、渋谷などは大人に連れられて行ってはいましたが、夜のナイトクラブやキャバレーは子供の覗えない別世界です。鮮やかに彩られたミラーボールの下で踊る輝くばかりに着飾った紳士とトイレになんぞ行くはずもない美女達(いくらバカの私だって今はもしかして行くかも知れないと思っていまっせ)。シャレた会話。飛び交う札。いずれも生活している身の周りでは見たことも無いものばかりです。僅かに映画と流行歌で知るばかりでしたな。
「今にオトナになったら、オイラも着飾って華やかなナイトクラブに行くぞ」。自分も「虹の橋」を渡れるような、こういう渇望感がイッパシの金が出来た歳になって、キャバレーやナイトクラブに足を向けた心理ですかね。
金はかかるしタイシテ面白くないしで、そのうち厭きました。(今さら使ったお金の半分で良いから返してと言ってもダメでしょうね)。
せめてものキャバレーやクラブの良かった点を挙げれば、皆正直者揃いで、「お若いのにこういうトコに出入り出来るなんて偉いわ」とか「若いのに世慣れていらしゃるわ、ステキ」とかホンネで接してくれたことですかね。
大学時代に、ウチの邦楽部を指導してくださった箏曲家の藤田都志先生。普段はザックバランで我々と一緒になってワアワアやってるくせに、ナンダ、演奏会となるとピデェじゃねえか、「大橋さん、デタラメ吹かないで」、「そんな出来で舞台に上がれると思ってんの」、「自分に酔うのは音楽じゃないの」
大声でまくしたてて、有名なナルシストの私の正当なプライドを傷つけてくれましたわ。瞬間的にせよ心に暗い陰がよぎるじゃねえか、「オレって、もしかして下手なの」
それでも舞台で尺八が吹きたかったから、お声がかかれば出していただきました。舞台の上での青木鈴慕、山口五郎の姿の格好良さ。いつか自分もああいう風韻の有る姿になりたい。大学時代はひたすら憧れました。
演奏会が終わると藤田先生は手のヒラを返したように褒めてくれるのが常でした。そう、人間正直が一番でっせ。下合わせの時に、本音を言ってくれたら毎回怖い思いをしないで済んだのに・・・。
藤田先生も亡くなってもう15年です。山口先生、横山先生、酒井先生も今は無く、青木先生も舞台を降りられました。もう私は誰を目指せば良いんですかね。若いころの虹は渡る間もなく消えてしまいました。
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