二日酔い
- 2019/09/21
- 15:57
初めて二日酔いをした時の事は良く憶えています。高校2年の夏、友達数人と海へ行き、テントで何泊かしました。夜にカンテラの灯りの中でトランプをやり、ゲーム毎に負けたヤツが罰として、買いこんでおいたウイスキーを付属品のプラスチックのチョコで1杯飲む。それもストレートでと、これを一晩中やっていて、全員が途中で潰れ、翌朝、太陽の熱でテントの中がサウナになって起きたら酷い二日酔いでした。
本能が水分と甘味を欲していましたので、カキ氷を1杯食べ、その後リポビタンⅮを飲んだら、しばらくして治りました。
大学時代は二日酔いとは、当時は、法政大学三曲会に限らず全てのサークルの、まあ通過儀礼みたいなもので、誰でもが1度は経験する事なので、ここでも何度かはなっています。で、思うのですが、当時は、新入生にあんな無茶呑みを強いていて、二日酔い以前の事故って無かったんでしょうか?有ったに違いないと思います。現にうちの部でも、クラブ未経験で2年生から入ってきた村上さんが、コンパの途中で「心臓が痒い」とか言い出して、救急車で運ばれたくらいですから。
でも当時は、酒が原因で死人が出ても大きなニュースにはなりませんでした。一応、新聞に出るくらいは有ったと思いますが、それ以上はウルサク言わなかった時代なのでしょう。そうですよ、当時は大学とは、いろんな事で死人が出る所でしたからね。
クラブでは合宿打ち上げのコンパを除いては、そんなに飲まないものなのです。なにより金が無かったですからね。毎日飲んで、その結果、大学の4年間で70万円(今の2百万といったところ)の借金を創った粟田の熊を除いては、下宿で飲むのだって3日に1回有るかどうか。飲屋で飲むことは10日に1度くらいだったように思います。ですから二日酔いを起こすほどの量は飲めませんや。
たまの飲み会も居酒屋が多く、場所も学校の近くです。飯田橋、神楽坂が多かったですね。それと風紀が悪いので有名な新小岩、ゴリラ委員長の「箱下宿」の隣「おばこ」です。
有名な新宿ゴールデン街は客筋が悪く、舞台俳優とか小説家、画家とか、要するに「売れない芸術家さん」の屯する所で、小難しい事を言い合った挙句、「表に出ろ」が定番ですから、学生は行かなかった。アカ学生にしたところで、同じく難解な議論はしていても、「国家権力」相手に棒きれを振り回して、それなりに発散していますから、ナカナカ「表に出ろ」とはならないものですわ。
また今では「思い出横丁」とシャレたネーミングで、外人観光客や若い女性も来る、新宿西口にくっついた柳横丁は、当時は店にトイレが有る所が少なく、駅の公衆トイレまで行くのが面倒なので、多くが立ちションで済ませていたので、小便の臭いが充満していて、それで誰もが「ション横」と呼んでいましたが、ここでも学生やドカタは飯を喰うだけで飲まないのです。何故なら、「ション横」は安サラリーマンの来るところで、何と言いますか、私ら学生には何か違和感が有りました。何より、私達が4年になってからは、それまで無かった「クラブの女の子同伴」が普通になりましたから。言わなくたって分るでしょうが、女の子に「便所なんてネエよ、そこらで立ちションしろ」なんて言える?
当時は本当に頻繁に、ナケナシの金を工面して演奏会に行きました。当時の邦楽の演奏会は、大学生で溢れていましたが、学生が詰めかけない様な演奏家は、当時は、あくまで当時はですよ、「皆駄目」と思っていました。演奏会が終わると会場近くの居酒屋に行って、あれこれ品評会をやるのがオキマリで、他校の学生と一緒になって、演奏家の悪口を言い合いました。当時は、あくまで当時はですよ、「学生にボロクソに言われない演奏家」なんて「皆駄目」だと思っていました。学生は大好きな演奏家以外の、どうでも良い人の悪口を口角泡を飛ばして言うほど暇ではありませんや。
いやー、その悪口の的確な事。今でも感心します。尺八の世界には、今も昔も専門批評家が存在せず、学生から見てさえ「素人さん」の学者さん、そのほとんどが糸方の研究家ですが、その人達がいるだけですので、「その批評は俺達が相手にするレベルではない」と、その頃も今も思われていますので、この学生の「居酒屋月旦」こそ、当時の最高の批評の場でしたな。
考えてみたら当り前だわ。当時の東京の学生って、日本の最高レベルの尺八家から直接指導を受けて、それで日夜励んでいるのだもの。実際、集団平均値としたらプロに次ぐ吹奏力を持っていました。細かい手なんて、それが的確に決まったかどうかなんて、聴くだけで実際の演奏をしなかったら分からないわよねえ・・・。ダイイチ聞いた事無いもんな、プロ尺八家が御追従でなく学者に「この前の演奏どうでしたか?」なんて訊くなんて。でもオレ達学生にはショッチュウだったぜ。
そして盛り上がると、続きは誰かの下宿です。法政だったら、常に多量の酒が置いて有る粟田の下宿、通称「熊小屋」が多かったですね。他の大学のヤツや、どういうわけか邦楽と関係無いヤツまでいましたね。4畳半に7,8人入っての酒盛りで、翌朝は決まって1人か2人は二日酔いです。
私が最後に二日酔いをしたのは、鈴慕会の合宿で同じ部屋だったスイス系の大男リチャード・ズーグさんとジョニ黒の飲み比べをした時ですから、もう20数年前です。我を忘れる程に楽しかったからですよ。
亡くなった香川一朝さんは大酒家でしたが、いくら飲んでも決して乱れない人でした。その彼が15年前に仙台で展示会をやったおり、これも故人の郡川直樹さん、吉田力さんの同じNHK育成会16期組と合流して、深夜まで盛り上がりました。その結果、彼としては珍しく二日酔いで、翌日の展示会は昼まで使い物になりませんでした。私と弟も同席していましたが、たしかにハイテンションで、飲むピッチも異常に速かった。余程に楽しかったのでしょう。
私も人の事を言えないくらい二日酔いをしてきましたけどね、これまで自棄酒で二日酔いした事って無いのですよ。楽しくって楽しくって酒が止まらず翌日は大変だと分かっていても二日酔い。これも人生じゃないですか。20代の半ばに「これからは尺八で生きていく」と決めたのも、何処かに学生時代の楽しい記憶が有ったのでしょう。まさか「二日酔いも楽しい」とまでは思いませんがね。でも、どっちにしろ体を悪くして、もう出来ない。学生時代の尺八仲間とは今も時々会いますが、もう誰も間違っても二日酔いなんてするほど飲みません。これが「大人というもの」なのでしょうね。
往時はすでに夢ですが、今も尺八ビジネスで全国を回り、昔の懐かしい仲間と旧交を温められるのは幸せだと思っています。
本能が水分と甘味を欲していましたので、カキ氷を1杯食べ、その後リポビタンⅮを飲んだら、しばらくして治りました。
大学時代は二日酔いとは、当時は、法政大学三曲会に限らず全てのサークルの、まあ通過儀礼みたいなもので、誰でもが1度は経験する事なので、ここでも何度かはなっています。で、思うのですが、当時は、新入生にあんな無茶呑みを強いていて、二日酔い以前の事故って無かったんでしょうか?有ったに違いないと思います。現にうちの部でも、クラブ未経験で2年生から入ってきた村上さんが、コンパの途中で「心臓が痒い」とか言い出して、救急車で運ばれたくらいですから。
でも当時は、酒が原因で死人が出ても大きなニュースにはなりませんでした。一応、新聞に出るくらいは有ったと思いますが、それ以上はウルサク言わなかった時代なのでしょう。そうですよ、当時は大学とは、いろんな事で死人が出る所でしたからね。
クラブでは合宿打ち上げのコンパを除いては、そんなに飲まないものなのです。なにより金が無かったですからね。毎日飲んで、その結果、大学の4年間で70万円(今の2百万といったところ)の借金を創った粟田の熊を除いては、下宿で飲むのだって3日に1回有るかどうか。飲屋で飲むことは10日に1度くらいだったように思います。ですから二日酔いを起こすほどの量は飲めませんや。
たまの飲み会も居酒屋が多く、場所も学校の近くです。飯田橋、神楽坂が多かったですね。それと風紀が悪いので有名な新小岩、ゴリラ委員長の「箱下宿」の隣「おばこ」です。
有名な新宿ゴールデン街は客筋が悪く、舞台俳優とか小説家、画家とか、要するに「売れない芸術家さん」の屯する所で、小難しい事を言い合った挙句、「表に出ろ」が定番ですから、学生は行かなかった。アカ学生にしたところで、同じく難解な議論はしていても、「国家権力」相手に棒きれを振り回して、それなりに発散していますから、ナカナカ「表に出ろ」とはならないものですわ。
また今では「思い出横丁」とシャレたネーミングで、外人観光客や若い女性も来る、新宿西口にくっついた柳横丁は、当時は店にトイレが有る所が少なく、駅の公衆トイレまで行くのが面倒なので、多くが立ちションで済ませていたので、小便の臭いが充満していて、それで誰もが「ション横」と呼んでいましたが、ここでも学生やドカタは飯を喰うだけで飲まないのです。何故なら、「ション横」は安サラリーマンの来るところで、何と言いますか、私ら学生には何か違和感が有りました。何より、私達が4年になってからは、それまで無かった「クラブの女の子同伴」が普通になりましたから。言わなくたって分るでしょうが、女の子に「便所なんてネエよ、そこらで立ちションしろ」なんて言える?
当時は本当に頻繁に、ナケナシの金を工面して演奏会に行きました。当時の邦楽の演奏会は、大学生で溢れていましたが、学生が詰めかけない様な演奏家は、当時は、あくまで当時はですよ、「皆駄目」と思っていました。演奏会が終わると会場近くの居酒屋に行って、あれこれ品評会をやるのがオキマリで、他校の学生と一緒になって、演奏家の悪口を言い合いました。当時は、あくまで当時はですよ、「学生にボロクソに言われない演奏家」なんて「皆駄目」だと思っていました。学生は大好きな演奏家以外の、どうでも良い人の悪口を口角泡を飛ばして言うほど暇ではありませんや。
いやー、その悪口の的確な事。今でも感心します。尺八の世界には、今も昔も専門批評家が存在せず、学生から見てさえ「素人さん」の学者さん、そのほとんどが糸方の研究家ですが、その人達がいるだけですので、「その批評は俺達が相手にするレベルではない」と、その頃も今も思われていますので、この学生の「居酒屋月旦」こそ、当時の最高の批評の場でしたな。
考えてみたら当り前だわ。当時の東京の学生って、日本の最高レベルの尺八家から直接指導を受けて、それで日夜励んでいるのだもの。実際、集団平均値としたらプロに次ぐ吹奏力を持っていました。細かい手なんて、それが的確に決まったかどうかなんて、聴くだけで実際の演奏をしなかったら分からないわよねえ・・・。ダイイチ聞いた事無いもんな、プロ尺八家が御追従でなく学者に「この前の演奏どうでしたか?」なんて訊くなんて。でもオレ達学生にはショッチュウだったぜ。
そして盛り上がると、続きは誰かの下宿です。法政だったら、常に多量の酒が置いて有る粟田の下宿、通称「熊小屋」が多かったですね。他の大学のヤツや、どういうわけか邦楽と関係無いヤツまでいましたね。4畳半に7,8人入っての酒盛りで、翌朝は決まって1人か2人は二日酔いです。
私が最後に二日酔いをしたのは、鈴慕会の合宿で同じ部屋だったスイス系の大男リチャード・ズーグさんとジョニ黒の飲み比べをした時ですから、もう20数年前です。我を忘れる程に楽しかったからですよ。
亡くなった香川一朝さんは大酒家でしたが、いくら飲んでも決して乱れない人でした。その彼が15年前に仙台で展示会をやったおり、これも故人の郡川直樹さん、吉田力さんの同じNHK育成会16期組と合流して、深夜まで盛り上がりました。その結果、彼としては珍しく二日酔いで、翌日の展示会は昼まで使い物になりませんでした。私と弟も同席していましたが、たしかにハイテンションで、飲むピッチも異常に速かった。余程に楽しかったのでしょう。
私も人の事を言えないくらい二日酔いをしてきましたけどね、これまで自棄酒で二日酔いした事って無いのですよ。楽しくって楽しくって酒が止まらず翌日は大変だと分かっていても二日酔い。これも人生じゃないですか。20代の半ばに「これからは尺八で生きていく」と決めたのも、何処かに学生時代の楽しい記憶が有ったのでしょう。まさか「二日酔いも楽しい」とまでは思いませんがね。でも、どっちにしろ体を悪くして、もう出来ない。学生時代の尺八仲間とは今も時々会いますが、もう誰も間違っても二日酔いなんてするほど飲みません。これが「大人というもの」なのでしょうね。
往時はすでに夢ですが、今も尺八ビジネスで全国を回り、昔の懐かしい仲間と旧交を温められるのは幸せだと思っています。
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