餃子
- 2020/04/23
- 21:39
私は1950年生まれです。つまり、このブログを読んで下さっている大方の人と同年配です。ですから分るでしょう?貴方達も中学くらいまでは、餃子って食べた事が無かったんではないでしょうか。貧しい時代だったから?いえいえ、それもありましたが、でもラーメンは食べてたでしょう。「ラーメンは腹が膨れるけど、餃子じゃ満腹にはならないよ。外食は贅沢な時代だったから、なかなかラーメン、プラス餃子ってわけにはいかないじゃん」。いえいえ、それも勿論あったでしょうが、当時は、宇都宮や浜松ならいざ知らず、少なくとも私の周り(東京の世田谷)では、ラーメン屋は餃子を出す店が少なく、あまり馴染みが無い食べ物だったからです。それと云うのもオヤジ1人でやっている零細な店が多く、ワンタンやシューマイと違って、焼かなければならない餃子は面倒だったのです。おそらく、1960年に死んだ祖母、1976年まで生きた祖父でも、生涯1度も餃子を口にした事は無かったと思います。
ラーメンを初めて食べた日本人は誰でしょう?」、このクイズは今では一般的になりました。水戸光圀だという事になっています。では餃子は?。答えは、これも水戸光圀、黄門様、だそうです。本当は、そんなはずはないです。でも、初めの1人なんて特定できない以上、「それで良い」とするのが「大人の知恵」というものです。5年前にも書きましたよね。
「水戸黄門が亡命中国人の朱舜水から教わって食べた」、それで良い事です。でも蛇足を書き足しますと、ラーメンも餃子も、どういう状態を云うかは別として、はるか前から、少なくとも、多数の日本人が長期滞在した遣唐使の頃には有りましたし、それに朱舜水って、黄門様の所でやっかいになる前にも、5回くらい日本に滞在してるんですよね。
何より餃子って山東半島で3千年前くらいに出来たと言われていますので、朝鮮半島経由で、今の仁川あたりから山東半島に渡って、中国と交流したであろう飛鳥時代以前の日本人の中にも、もしかして食べた人もいたかも知れませんね。「一年がかりで洛陽まで来た」と中国史書に書いてありますから、途中経由の場所でも長期滞在をしたのでしょうから。ちなみに「倭の五王」は5世紀後半になると中国(南朝)に遣使しなくなりますが、それは山東が北魏(北朝)の勢力圏に入ってしまい、その上にソウル、仁川周辺も敵対国家である高句麗の領土になってしまったからです。東シナ海を横断する航海技術の無かった時代の日本では、中国に渡るにはリスクが多かったからでしょう。
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ところで餃子は、どうして「ギョウザ」なのでしょう?。日本で始めたのが戦前の朝鮮人だったとの説が有ります。餃子は中国語読みではチャオズですが、ナルホド朝鮮語読みではギョジャです。でも韓国では餃子の呼び名は饅頭(マントウ)です。1974年ころ、釜山の駅前には中国人居住区が有って、私は辛い物が嫌になると、そこでショッチュウ水餃子(ムルマントウ=水饅頭)を食べました。当時130ウオン(日本円で100円くらい)でしたが、韓国だけあって量が多く、1杯で腹いっぱいになりました。当時でも韓国には日本式の焼き餃子も有りましたが、こっちは主として韓国人がやってる中華料理屋、日本で云うラーメン屋のメニューでした。でも、そこでも「ギョウザ」とは言ってなかったです。
なのに、どうして日本では韓国読みのギョウザなのでしょう?。山東や河北でギョウザに近い発音をする地域が存在すると聞いた事もありますが、私には分かりません。
私が初めて餃子を食べたのは早稲田中学に入った1963年です。当時の早稲田マンなら皆知っていた一楽という湯麵専門店で、です。ここはタンメンと餃子だけの店で、湯麵も餃子も50円。早稲田周辺の他の店と比べて別に安くはないのに、どういうわけか昼時は1階2階とも常に満席でした。たしかに量は多かったかも知れません、食い盛りの中学生でも、普通は湯麵1杯で、まあ満ち足りましたもの・・・。
餃子は、まだ一般的な食べ物になりかけた程度で、中学はおろか私の大学時代でも、女性はまず食べませんでした。ニンニクが敬遠される原因の最大要因、2番目は、なお完全な意味では普及していなかったからだと思います。勿論、その存在や名前も知らなかった人は、私の子供の頃でもいなかったと思います。でも、このハードルも彼氏が出来るとクリア出来ました。1皿の餃子を「君も食べない?」と彼氏に勧められて、最初はポーズかも知れませんが、おずおずと箸を伸ばす。当時に青春時代を送った人なら誰もが憶えが有るはずです。「知らない」って、オレだってモテなかったヤツの事までは責任もてねえよ。
ともかく大切な事。かつては人気が無かった餃子が、どうして春巻や、50年前の日本では、よりポピュラーだったシュウマイ、ワンタンをおしのけて、中国点心の人気ナンバーワンに成れたのか?。
戦前、20世紀に入ってから40年間の日本人は、戦後からの40年間より、むしろ中国人、朝鮮人に接する機会が多かった。多数の外国人を抱えた多民族国家でしたものね。でも、戦前の、この間にはラーメンも餃子も朝鮮焼肉も普及しませんでした。ラーメン、焼肉は置いといて、とりあえず餃子ですよ、かつてイヤがられたニンニクも、その後「美味くてスタミナがつく」に変わり、「1皿では満腹にならない」も、だからこそ飯のおかずになるわけです。ワンタンと違い弁当にも入れられますしね。それに注意していないと焦がすので、ラーメン屋のオヤジに面倒がられた焼く作業も、ノウハウが確立してからは、「熱いのを食べられる」と歓迎されています。
人気が高まった1980年頃から餃子専門店も多くなり、そこでは競争原理が働き、様々なバリエーションも生まれました。
ですから私は思うのです、欠点は往々にして長所になりうるって。尺八なんか、もろにそうでしょう。かつての尺八界は楽器も愛好家の音楽的素養も酷いものでした。でも、だから男子年配者に愛好家を創っていけたのです。かつてとは比較にならないほどマトモになった現在でも、なお、ここの部分は文化的バリエーションとして、競争力をもっています。
また尺八で、かつて「楽器的欠陥」と指摘された数々の点こそ、今では「それが有ればこその楽器の個性」と評価が逆転しています。太さマチマチの竹そのままの外見、五つしかない手穴、息効率の悪い吹き口構造、コントロールし難い開口手穴、吹き手により大きく変わる音程とかですよ。
楽器の推移に関する資料を読めば分かります。楽器は一直線に効率性だけを求めて進化してきたわけではありません。音色とか構造の個性と効率性との調和、綱引き、妥協の歴史です。これを纏めて全部、共生の関係に持っていけた楽器こそ現在の尺八です。だって、市場が小さく手作りから脱皮できなかったんですもの。そして性能面での改善の余地は豊富に存在していました。ですから、今の様に価値観が多様化した環境に最も適してると思いませんですか?
尺八と同じく中国にルーツをもつ餃子も、飯のおかずになる「焼く餃子」は日本料理として、韓国はじめ世界の人に食べられています。尺八も負けてはいませんぞ。いや、むしろ中国に関してはオレ達の方が上だい。何せ日本式の焼く餃子は未だに見ないのに、尺八は、もうそろそろアッチが本場に成るもん・・・。
ラーメンを初めて食べた日本人は誰でしょう?」、このクイズは今では一般的になりました。水戸光圀だという事になっています。では餃子は?。答えは、これも水戸光圀、黄門様、だそうです。本当は、そんなはずはないです。でも、初めの1人なんて特定できない以上、「それで良い」とするのが「大人の知恵」というものです。5年前にも書きましたよね。
「水戸黄門が亡命中国人の朱舜水から教わって食べた」、それで良い事です。でも蛇足を書き足しますと、ラーメンも餃子も、どういう状態を云うかは別として、はるか前から、少なくとも、多数の日本人が長期滞在した遣唐使の頃には有りましたし、それに朱舜水って、黄門様の所でやっかいになる前にも、5回くらい日本に滞在してるんですよね。
何より餃子って山東半島で3千年前くらいに出来たと言われていますので、朝鮮半島経由で、今の仁川あたりから山東半島に渡って、中国と交流したであろう飛鳥時代以前の日本人の中にも、もしかして食べた人もいたかも知れませんね。「一年がかりで洛陽まで来た」と中国史書に書いてありますから、途中経由の場所でも長期滞在をしたのでしょうから。ちなみに「倭の五王」は5世紀後半になると中国(南朝)に遣使しなくなりますが、それは山東が北魏(北朝)の勢力圏に入ってしまい、その上にソウル、仁川周辺も敵対国家である高句麗の領土になってしまったからです。東シナ海を横断する航海技術の無かった時代の日本では、中国に渡るにはリスクが多かったからでしょう。
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ところで餃子は、どうして「ギョウザ」なのでしょう?。日本で始めたのが戦前の朝鮮人だったとの説が有ります。餃子は中国語読みではチャオズですが、ナルホド朝鮮語読みではギョジャです。でも韓国では餃子の呼び名は饅頭(マントウ)です。1974年ころ、釜山の駅前には中国人居住区が有って、私は辛い物が嫌になると、そこでショッチュウ水餃子(ムルマントウ=水饅頭)を食べました。当時130ウオン(日本円で100円くらい)でしたが、韓国だけあって量が多く、1杯で腹いっぱいになりました。当時でも韓国には日本式の焼き餃子も有りましたが、こっちは主として韓国人がやってる中華料理屋、日本で云うラーメン屋のメニューでした。でも、そこでも「ギョウザ」とは言ってなかったです。
なのに、どうして日本では韓国読みのギョウザなのでしょう?。山東や河北でギョウザに近い発音をする地域が存在すると聞いた事もありますが、私には分かりません。
私が初めて餃子を食べたのは早稲田中学に入った1963年です。当時の早稲田マンなら皆知っていた一楽という湯麵専門店で、です。ここはタンメンと餃子だけの店で、湯麵も餃子も50円。早稲田周辺の他の店と比べて別に安くはないのに、どういうわけか昼時は1階2階とも常に満席でした。たしかに量は多かったかも知れません、食い盛りの中学生でも、普通は湯麵1杯で、まあ満ち足りましたもの・・・。
餃子は、まだ一般的な食べ物になりかけた程度で、中学はおろか私の大学時代でも、女性はまず食べませんでした。ニンニクが敬遠される原因の最大要因、2番目は、なお完全な意味では普及していなかったからだと思います。勿論、その存在や名前も知らなかった人は、私の子供の頃でもいなかったと思います。でも、このハードルも彼氏が出来るとクリア出来ました。1皿の餃子を「君も食べない?」と彼氏に勧められて、最初はポーズかも知れませんが、おずおずと箸を伸ばす。当時に青春時代を送った人なら誰もが憶えが有るはずです。「知らない」って、オレだってモテなかったヤツの事までは責任もてねえよ。
ともかく大切な事。かつては人気が無かった餃子が、どうして春巻や、50年前の日本では、よりポピュラーだったシュウマイ、ワンタンをおしのけて、中国点心の人気ナンバーワンに成れたのか?。
戦前、20世紀に入ってから40年間の日本人は、戦後からの40年間より、むしろ中国人、朝鮮人に接する機会が多かった。多数の外国人を抱えた多民族国家でしたものね。でも、戦前の、この間にはラーメンも餃子も朝鮮焼肉も普及しませんでした。ラーメン、焼肉は置いといて、とりあえず餃子ですよ、かつてイヤがられたニンニクも、その後「美味くてスタミナがつく」に変わり、「1皿では満腹にならない」も、だからこそ飯のおかずになるわけです。ワンタンと違い弁当にも入れられますしね。それに注意していないと焦がすので、ラーメン屋のオヤジに面倒がられた焼く作業も、ノウハウが確立してからは、「熱いのを食べられる」と歓迎されています。
人気が高まった1980年頃から餃子専門店も多くなり、そこでは競争原理が働き、様々なバリエーションも生まれました。
ですから私は思うのです、欠点は往々にして長所になりうるって。尺八なんか、もろにそうでしょう。かつての尺八界は楽器も愛好家の音楽的素養も酷いものでした。でも、だから男子年配者に愛好家を創っていけたのです。かつてとは比較にならないほどマトモになった現在でも、なお、ここの部分は文化的バリエーションとして、競争力をもっています。
また尺八で、かつて「楽器的欠陥」と指摘された数々の点こそ、今では「それが有ればこその楽器の個性」と評価が逆転しています。太さマチマチの竹そのままの外見、五つしかない手穴、息効率の悪い吹き口構造、コントロールし難い開口手穴、吹き手により大きく変わる音程とかですよ。
楽器の推移に関する資料を読めば分かります。楽器は一直線に効率性だけを求めて進化してきたわけではありません。音色とか構造の個性と効率性との調和、綱引き、妥協の歴史です。これを纏めて全部、共生の関係に持っていけた楽器こそ現在の尺八です。だって、市場が小さく手作りから脱皮できなかったんですもの。そして性能面での改善の余地は豊富に存在していました。ですから、今の様に価値観が多様化した環境に最も適してると思いませんですか?
尺八と同じく中国にルーツをもつ餃子も、飯のおかずになる「焼く餃子」は日本料理として、韓国はじめ世界の人に食べられています。尺八も負けてはいませんぞ。いや、むしろ中国に関してはオレ達の方が上だい。何せ日本式の焼く餃子は未だに見ないのに、尺八は、もうそろそろアッチが本場に成るもん・・・。
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