私が大学に入って間もない頃です。尺八の先輩、1年上の浅野さんに訊きました。「授業って半分くらい出てれば大丈夫ですかね?」。
そしたら浅野さん、「半分?そんな事無いよ。単位を取るのに出席日数なんて関係無いよ」。
1969年当時ですよ、その質問の前から、大学の緩さは折りにふれて聞いてはいましたよ、でも、まだ大学を過大評価していたようです。そのすぐあと、今度は早稲田に入った高校時代の先輩と飲む機会が有り、その席で、大学の成績評価は「10ルートⅩ」だと聞かされました。つまり、当時の大学では「優=80点以上、良=60点以上、可=50点以上、不可=50点以下で単位取得不可」の4段階評価でしたが、その採点は、「そのまま評価」ではなく、「10ルートⅩ」。分かり易く言えば、25点だったらルート25ですから5。そして「かける10」ですから50点で可。目出度く単位取得です。
「そんなイイカゲンがまかり通っていたのか?」ですって、せっせと授業に出ていた女子学生なみに純情な人っているものですから、念の為に解説しましょう。1969年は大学に「ゲバルトの嵐」が吹いていて、その年は国立1期は入学中止。私の法政だって翌70年は「ロックアウト」で授業は前期のみ(つまり4月から6月まで)でした。それでなくったって、ヘルメットを被ってゲバ棒を振り回していた連中が授業に出ていたと思う?。でも、多くは4年になると背広にネクタイで就活をして無事卒業。会社に勤め、その後も「資本主義の先兵」として、「バブルを起こす」などの大活躍をしました。ヤツラが卒業できたからには「10ルートⅩ」ですらなかったと思わざるをえません。
それはともかく、その後に1人でもいたと思いますか?「2年生の時、3か月しか授業が無かったから、それが後々までハンディとなって響いた」なんて言うオリコウさんが・・・。いくら当時だって、大学生だもの、そこまでバカじゃねえぜ。
私が知っている15年間くらいの法政大学三曲会には、共産主義者は1人もいませんでした。「短期的プチシンパ」はいましたが、せいぜいがデモに、それもイヤイヤ参加するくらいです。だからブタ箱に入ったのは2年上の池田珍念入道だけです。同学年にいた糸井重里の扇動にのって「三里塚闘争」に加わって3泊4日の「ブタ箱暮らし」をしましたな。でも、それでどうと云う事はなく、まあまあの会社に就職しました。
ところが1977年の春。法政大学三曲会の会員が一挙13人、「ブタ箱入り」しました。短いヤツで3泊4日、長いと横山という男が7泊8日も入っていました。本人達の名誉の為に言いますが、この中にも、ただの1人も共産主義者はいません。学生会館の建設に関する「居座り」が連行された原因で、三曲会が中核派の支配する文化連盟に所属していた関係で、その程度の事は同一歩調をとらなければならないジレンマが有ったのです。「右翼」と言われた私だって70年の「ロックアウト破り」に参加したくらいです。「それで長い短いは、どう決まるか?」ですって。簡単ですよ、本当は警察だって内心苦笑いしていますから、この程度の連行理由なら、懲戒の意味で1晩2晩泊めるのは言わば儀式。その後は気の向くままに呼び出し、そこで氏名を明かしさえすれば、指紋押印の上、釈放です。
後年、その13人のうちの一人と偶然会いました。その男は、新入生で何が何だか分からないで「居座り」に参加させられて「ブタ箱送り」。出て間もなく三曲会を退部。そこまでは良いとして、4年後ですが都市銀行に内定して、でも内定取り消し。信用金庫だとオーケー、地銀まあまあオーケーか?。でも、都市銀ですから、その後の経歴調査で引っかかったわけです。警察資料が入手出来る交換対価って高いのでしょうな?。まあ、それはともかく、こんな程度でも異物排除ですから、その銀行の、その後のオチブレぶりは、至極当然か・・・。
その内定取り消しにあった男、故郷で良い会社に就職していました。取り消した銀行は、その後は「劣者合併」をしましたし、それに、そう言っては何ですが、都銀では法政卒の将来は知れたものですよ。だから、もうその時点で、「居座り」を命じた横田茂以外の人間は恨んでいませんでしたな。
私は、これから尺八の試験を受ける為、緊張している人には訊かれなくても言っています。「都山流では試験制度が有るけど、準師範試験で落ちる事は無いですよ。師範試験だって、それよりはマシだという程度です」。
でもね、大学卒業と同じで、その試験は「合格前提」でも、それは、あくまで免状。それ自体の価値は知れたものでも、もし、その後何かをするなら出発点です。
私のいた頃でも、欧米の大学は「入るのは簡単。でも卒業は大変」と言われていましたわ。アメリカで4割、フランスだと半分以上が卒業出来なかったそうですね。日本では、いったん入学してしまえば試験は「10ルートⅩ」で卒業は楽。ブタ箱経験者でも、教室にいるより雀荘にいた方が長いヤツでも卒業出来ました。それでいて世界でも稀に見る能力を示して、一時は日本をして「世界の脅威」とまで言わしめたのは、「学校勉強」なんて頭から信じていない企業による、卒業後の徹底した実務教育と「多様な人間を容認する」懐の広さが有ったればこそです。でもね、都銀ともなると、何が何だか分からずに、学生運動とすら言えないものに参加させられた人間にすら門を閉ざすのでしょう。だからこそ、保身重視で責任回避のアッパレぶり。結果ここ20年の迷走が起きたのですわな。
私の頃まで大学は、そこでの勉強なんてどうであれ、出れば比較として良い待遇が与えられました。「今からも同じだ」と考えている人は少ないでしょうが、もし、そう思うなら無駄でも「学校勉強」はした方が良いと思います。洞察力の貧弱さを幾分でも補ってくれる。尺八の免状も本気で「価値が有る」と少しでも思うなら取った方が良いかも知れません。金で済むことですし、取っていて損する事だけは無いですから。
でも尺八は良いよね、いったん師範になれば終生師範だし。「師範になってから上手くなった人を見た事が無い」と云うより、その「上手くなった」は、そもそも「上手い師範」と同一人物なんです。その方面に適性が有ったから自分で上手くなった。
「その後の教育」をしてくれるモノが存在しないのは会社と違うけど、それで迷惑する人がいないのも事実です。前は、師範の肩書を真に受けて習いに行って、時間と金銭を空費した人も多かったけど、時代が変わった今は、もうそんな事は考えずらいですしね。
でも、だからこそ、尺八の文化としての重要な一面を潰しているのです。音楽は文化です。でも、「=文化」ではないのです。尺八も「=楽器」ではありません。もっと多様な要素を包含していたのが尺八でした。そういう所に目を向けないと、ブタ箱1回で排除される都銀みたいになりますぜ。オチブてから気がついても遅いのですよ。
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