数値以外
- 2020/07/27
- 09:11
実験の意味で1日だけの展示会を湘南でやりました。「東京以外はドンドン外へ出ましょう」という政府のGоTоキャンペーンに後押しされた事も有るんですかね、予想より多い来客数でした。狭い範囲に区切った1日の展示会は、今みたいに高齢化が進み、人が1時間以上の移動を敬遠する様になった尺八界では、非常に有効のように思います。今回は上手く行きましたが、これから何回か行ってみて、それから結論を出します。
ところで話は変わりますが、将棋の藤井聡太棋聖ですよ、凄いですね。こういう「勝ち負け競技」や「記録競技」はインチキが存在しない分、心から尊敬出来ます。白石麻衣や浜辺美波を心から応援出来るのと同じ心理構造ですな。
将棋は今は人気が無いでしょう。でも私の子供の時代は、男の子はダイタイやったものです。中学、高校と進むと、興味を失う者が段々増えていきましたが、それでも私の周囲では、高校2年まではクラスの2割くらいがマアマア熱心にやっていたように思います。
その一人である私も大学の学園祭で将棋部の猛者と対局した事が有りますが、いやー、その強いこと。平手では「どこをどうやっても歯が立たない」、それならと飛車と角を抜いてもらった「2枚落ち」。これでも全くダメ。ならば、ということで、さらに香車2枚を抜く「4枚落ち」。それでも全然。例えて言うと「子ども扱い」。それで降参です。
将棋のファンならお分かりいただける事ですが、もう後の駒を追加で落とした場合は、誰でも勝てる。つまり競技として成立しないのです。ですから、「4枚落ち」で負けた時点で、「恐れ入りました。到底私如きは、相手をさせていただくような者ではありません」と礼を言って引き下がるのです。
でもですよ、その怪物に見えた将棋部の人が、藤井聡太と対局したとしたら、おそらく「4枚落ち」でも勝てないのではないでしょうかね?
私が藤井棋聖とやった場合では、「4枚落ち」の上、さらに、どちらかの桂馬を一つ抜いても勝てない気がします。ところが、桂馬2つを追加で落とせば、これは相手が誰であろうと絶対勝てます。
原理的に「守る側」は駒2枚しか配置できない1番端っこに攻撃を集中するわけで、香車、桂馬、銀、飛車、角と5枚で攻撃出来る「攻める側」は、飛車が敵陣を突破して成り込んだ時点で、まだ桂馬、角が後詰めに存在し、さらに持ち駒が金銀歩。それに対して「守る側」は、遠い片側に金銀で裸の王将。持ち駒が歩、香、銀の3枚ですから、相手は何をやってもダメ。ここで「勝ち」が確定します。ここまでは「勝負勘」とか才能は関係無く、あくまで数学の問題なのです。もっと分かり易いものを例に採れば、子供がやる〇×、「井桁を書いて3つ並べた方が勝ち」というヤツですが、あれはゲームとして成立しないほどノウハウが簡単で、先手は勝ちか引き分け、後手は負けか引き分けで、少し慣れたらバカでない限り永遠に引き分けです。つまり、数学が「絶対」の意味を持つ範囲というものが存在します。
つまり、将棋で言えば、この「桂馬を無くすかどうか」という、たった1点に大天才もドべタ(俺のことじゃねえぜ)も関係無い「絶対的範囲」が存在しているわけです。
尺八で、この「数学的絶対の範囲」の究明が格段に進んだのが、この数年です。もう「竹だから音がどう」とか言うのは、質問ならともかく論争だと、専門家はマトモには相手にしなくなったでしょう。計測機器の発達、3Ⅾプリンターの広汎な採用、総サンプル数が増え理論構築が精密さを増した、そう言った事で決定的になりました。久しく待望されていた「楽器としての尺八の完成形」も3Ⅾによって「一応の完成を見た」と言って良いと思います。ここまでは言わば数学の範囲。
そこで次のステージ。吹くのは人間だから「完成形は一つではない」と言う当り前の事に、今度は迷信や、場合によってはもっとヒドイ「未熟な実験方法に基ずくトンデモ理論」排除で向き合えるのです。
吹く人、と言うよりも「いかなるソフトに使用するか?」あるいは「どういう操作を採るか?」が決定的ですね。歌口の浅深、アゴ当たりの落し方、尺八の太さ、孔の数、孔の大小。こういったところが「永久に残る違い」です。
そして、今一つ重要なのが、「面白さ」。言い方を変えれば「人間が、どう云うモノに面白さを感じるか?」です。不便なモノ、不具合を内包しているモノ、例えて言えば、地無し尺八とか歪な陶磁器に魅力を感じる様なものですわ。こういう魅力もまた、尺八が楽器としての数学的完成度を高める事に反して、ではなく同時に存在感に確固たる基盤を持ち始めました。
「自然科学の定理」を否定する行為は、バカ(99%)か、分かっていて金儲けに利用しているテアイ(1%)のやる事ですが、「科学が全てではない」もまた誰もが納得している人間の知恵で、いわば文化とか芸術は、ここに立脚しているものでしょうが。
「迷信の排除」と「文化としての確立」の両方が進んだ今の尺八界。私は、こういう時代を迎えられて幸せです。
ところで話は変わりますが、将棋の藤井聡太棋聖ですよ、凄いですね。こういう「勝ち負け競技」や「記録競技」はインチキが存在しない分、心から尊敬出来ます。白石麻衣や浜辺美波を心から応援出来るのと同じ心理構造ですな。
将棋は今は人気が無いでしょう。でも私の子供の時代は、男の子はダイタイやったものです。中学、高校と進むと、興味を失う者が段々増えていきましたが、それでも私の周囲では、高校2年まではクラスの2割くらいがマアマア熱心にやっていたように思います。
その一人である私も大学の学園祭で将棋部の猛者と対局した事が有りますが、いやー、その強いこと。平手では「どこをどうやっても歯が立たない」、それならと飛車と角を抜いてもらった「2枚落ち」。これでも全くダメ。ならば、ということで、さらに香車2枚を抜く「4枚落ち」。それでも全然。例えて言うと「子ども扱い」。それで降参です。
将棋のファンならお分かりいただける事ですが、もう後の駒を追加で落とした場合は、誰でも勝てる。つまり競技として成立しないのです。ですから、「4枚落ち」で負けた時点で、「恐れ入りました。到底私如きは、相手をさせていただくような者ではありません」と礼を言って引き下がるのです。
でもですよ、その怪物に見えた将棋部の人が、藤井聡太と対局したとしたら、おそらく「4枚落ち」でも勝てないのではないでしょうかね?
私が藤井棋聖とやった場合では、「4枚落ち」の上、さらに、どちらかの桂馬を一つ抜いても勝てない気がします。ところが、桂馬2つを追加で落とせば、これは相手が誰であろうと絶対勝てます。
原理的に「守る側」は駒2枚しか配置できない1番端っこに攻撃を集中するわけで、香車、桂馬、銀、飛車、角と5枚で攻撃出来る「攻める側」は、飛車が敵陣を突破して成り込んだ時点で、まだ桂馬、角が後詰めに存在し、さらに持ち駒が金銀歩。それに対して「守る側」は、遠い片側に金銀で裸の王将。持ち駒が歩、香、銀の3枚ですから、相手は何をやってもダメ。ここで「勝ち」が確定します。ここまでは「勝負勘」とか才能は関係無く、あくまで数学の問題なのです。もっと分かり易いものを例に採れば、子供がやる〇×、「井桁を書いて3つ並べた方が勝ち」というヤツですが、あれはゲームとして成立しないほどノウハウが簡単で、先手は勝ちか引き分け、後手は負けか引き分けで、少し慣れたらバカでない限り永遠に引き分けです。つまり、数学が「絶対」の意味を持つ範囲というものが存在します。
つまり、将棋で言えば、この「桂馬を無くすかどうか」という、たった1点に大天才もドべタ(俺のことじゃねえぜ)も関係無い「絶対的範囲」が存在しているわけです。
尺八で、この「数学的絶対の範囲」の究明が格段に進んだのが、この数年です。もう「竹だから音がどう」とか言うのは、質問ならともかく論争だと、専門家はマトモには相手にしなくなったでしょう。計測機器の発達、3Ⅾプリンターの広汎な採用、総サンプル数が増え理論構築が精密さを増した、そう言った事で決定的になりました。久しく待望されていた「楽器としての尺八の完成形」も3Ⅾによって「一応の完成を見た」と言って良いと思います。ここまでは言わば数学の範囲。
そこで次のステージ。吹くのは人間だから「完成形は一つではない」と言う当り前の事に、今度は迷信や、場合によってはもっとヒドイ「未熟な実験方法に基ずくトンデモ理論」排除で向き合えるのです。
吹く人、と言うよりも「いかなるソフトに使用するか?」あるいは「どういう操作を採るか?」が決定的ですね。歌口の浅深、アゴ当たりの落し方、尺八の太さ、孔の数、孔の大小。こういったところが「永久に残る違い」です。
そして、今一つ重要なのが、「面白さ」。言い方を変えれば「人間が、どう云うモノに面白さを感じるか?」です。不便なモノ、不具合を内包しているモノ、例えて言えば、地無し尺八とか歪な陶磁器に魅力を感じる様なものですわ。こういう魅力もまた、尺八が楽器としての数学的完成度を高める事に反して、ではなく同時に存在感に確固たる基盤を持ち始めました。
「自然科学の定理」を否定する行為は、バカ(99%)か、分かっていて金儲けに利用しているテアイ(1%)のやる事ですが、「科学が全てではない」もまた誰もが納得している人間の知恵で、いわば文化とか芸術は、ここに立脚しているものでしょうが。
「迷信の排除」と「文化としての確立」の両方が進んだ今の尺八界。私は、こういう時代を迎えられて幸せです。
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