都山流楽会の大師範・高橋河童は私の大学の後輩です。ヤツの住んでいる新潟県の魚沼市小平尾は、今でこそ市ですが、ヤツが大学に入る為に上京してきた50年前といえば、「見渡す限り雪と田圃以外は何もないド田舎」と言って過言ではない広神村でした。市に昇格するにあたり魚沼となったのは、5年くらい前のテレビⅭⅯで山崎努が言っていた様に、「池と沼の違いは河童が生息しているかどうか」です。
まあ、こういう行政上の極秘に属するデリケートな判断は置くとして、その中での、ちょっとコマシな集落といえば小出ですから、ヤツの若い頃は、それこそ鉛筆1本買うのにも小出まで出た事だと推測します。
高橋の少年時代の思い出では、小出まで出て神社の境内で花相撲を見たそうです。花相撲は年6回の本場所と異なり、公式の勝敗記録に残らない、ある意味もっと気楽なものです。ですから、そのイベントとしての面白さは本場所の比ではありません。実際に見た事の有る人なら先刻御存知の様に、ルール解説自体が漫談風で面白可笑しく、相撲甚句有り、プロレスモドキの凶器攻撃有りで、エンターテイメントとして、とにかく来た人を徹底して楽しませようとの工夫が満載です。
中で人気はショッキリ(初切)と呼ばれる疑似戦です。相撲の手を様々繰り出しながら、筋書き通りの試合をするもので、小出でやられたショッキリ試合では、対戦中にマワシがハズレかかって、観客一同が抱腹絶倒で爆笑したそうです。もちろんショッキリで芸の一部です。
この花相撲と本場所とが厳密に区別されているのが相撲で、同一の会場で取り組みにより「真剣勝負風」とショッキリが混在しているのがプロレスです。相撲は本場所では基本的にガチ、プロレスは事前に全部勝敗が決まっている、そういう違いは有っても、「会場に来た人に楽しんで帰ってもらおう」という意図は同じです。花相撲は本番とは違いますので、勝負にこだわって怪我でもすれば本末転倒ですので、対戦も無理をしない範囲での事ですから、相手が受け身をとれる投げ以外は、押出しで勝負が決まります。でも、だからって「お茶濁し」では有りません。要するにエンターテイメント重視、「プロレス」ですよ。
こういう構成は尺八では民謡ですね。かつて私の出た民謡の大きな会では、たまに専門職による「お笑い」を豊富に取り入れた寸劇の幕が有りました。そこで歌われる民謡は大幅に崩していますが、基本がしっかり出来た上での高度な技術で行わないと本当の「ドサ芸」、「乞食芝居」になってしまいます。
これまでの古典尺八の会では、この「客を楽しませよう」との姿勢が皆無でしたな。それはそれで言い分が有る事は分かります。「しっかりと本物をやってこそ尺八」という意見には、部分的にせよ同意もします。でも演奏会に来た人の大半が義理で、結果「いつもの通り」の無感動の惰性行事で客を帰す現状を、「そのままで良い」と思って何もしなかったからこそ、尺八の会は、もう半世紀も前には、「義理売り」でなければ実券が裁けないまでにオチブレたわけです。
相撲のショッキリやプロレスは「おふざけ」では勿論ないし、当然のことながら「不真面目」とは対極に在るものです。8年前の「尺八世界一決定戦」で1位を獲った岩田卓也さんの演奏は、その時点で賛否が分かれました。「パフォーマンスが過ぎる」というのが否定派の感想でしたね。でも当日、会場にいた人なら、「誰が一番会場を沸かせていたか」をハッキリ憶えているでしょう。「受ければ良いというモノではない」との意見も大切です。でも「尺八もエンターテイメントでなければ滅びる」という考えも大切です。しかし技術的にも難しいですわな。藤原、小湊と並び紹される吹奏技術を有する岩田さんだからこそ「ショッキリ尺八」でも様になるのでしょう。
今、ようやく尺八も外国ではガチで実券が出るまでになりました。特に日本から本場が遷ったらしい中国では、「義理売り皆無」で会場が満杯。それどころか人気のチケットではプレミアが乗るまでになりました。「日本はこのままで良い」と考える人は、そうすれば良いでしょう。「正統志向」の流派会派には、どうせ先が無いのですから。でも、古典尺八曲は、その道連れになりたくないの。客に「面白い」と思ってもらう尺八であってこそ、「正統、本道」とか云う、主観的で極めて多岐にわたるモノも、その中での構成要素の一部として生き残れるのだと思います。
尺八より格段に財政基盤がしっかりしている相撲でさえ、勧進元さえいれば小出の田舎にまで行って、そこに集まった人達を、何年経っても「語り草」に出来るまでの楽しさを与えているのです。だからこそ長い年月に渡って、大相撲(本場所)も守られたのですわ。
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