哲学
- 2021/01/17
- 12:04
先だっての展示会です。堺の会場で大阪教育大学の名誉教授HS先生の御訪問を受けました。先生は都山流です。そりゃH先生は哲学の泰斗ですよ。でもオイラだって尺八の大先生だわ。ですから気後れなんてないのは何時もの事。どんな人とも基本的に対等に会話出来ます。でも、長く「縦型社会」だった日本では、このあたり話す相手によっては、まだ温度差が存在しますが、そこは哲学者。「人間の精神面での平等」は、いわば哲学の根本に類する事ですから、気持ち良く会話(と言っても一方的な質問)できました。
私は前から江戸期以前の日本に哲学者が存在したのか疑問でしたから、その辺りをただしました。空海や親鸞、道元、あるいは千利休なんかは哲学者でもあるのでしょうか。禅ほど顕著ではないけれど、奈良朝以来、日本人の価値観の奥に深く隠れて生息している華厳経、その日本における最初の解説者・審祥は?。
こういう段階では、哲学と芸術、宗教とが私の水準では分離出来ませんので、その辺の事を前から、知ってる人に会う機会が有れば訊いてみたいと思っていました。これって様々な分野の専門家と会話出来る尺八屋の特権ですわ。
私のいた頃、そう50年前の法政大学三曲会はノンポリの集りでした。そりゃ大学生でしたから、個人個人には思想の傾向は有りましたよ、でも集団に属して思想を具体的な行動にしないのがノンポリです。
人間の三大慾。すなはち食欲、睡眠欲、性欲。これが第一番目。次いで名誉欲、自己顕示欲、達成慾が有り、思想、哲学、宗教は、その下位に存在するものです。私が在籍した時代、つまり一緒のクラブ活動をした人達に関しては上の代も下の代もそうでした。ですから、そういうタイプの人でないと、居心地が悪いのでしょう、すぐ辞めました。だって、「ああ、そんな小難しい事はどうでも良い。センズリ一発、酒なら3合で解決する」ですからね。エッ、私?。私はいくら何でも、もう少し親切でしたよ。若松という後輩にですが、池袋に行けば東武日光行の切符が買えると教えましたわ。心変わりした時の為に、割引の有る往復切符にする事までアドヴァイスしたくらいです。「そんな事をして、もし本当に日光に行って華厳の滝の巌頭に立ったらどうするんだ」ですと。絶対に有り得ない。そんなヤツが三曲会に入ると思う?。ましてや私なんかに心の悩みを打ち明けたりしねえよ。
こういう当時の雰囲気は、私と同一期に在籍した人に哲学科が皆無だったことでも分かります。言ってみれば、神という「普遍的同意」を基盤に持たない稀有な教養社会を達成した日本の縮図ですよ。でも、日本社会より哲学的に、より進んでいたと考えられる点は、「相互自由の尊重」が高度に達成出来ていた事です。これは先輩、主として私の1年上の人達6人の人柄によるものだと思います。
プライベートでは上も下もアダナで呼んで相手を侮りあい、時により口汚く罵っても、相手の「自分をコケにする権利」を普通の事として受け入れていましたし、公式の会合では発言の自由は意識しないレベルにまで保証されていました。ですから意図せずに、かなり高度な哲学的境地が達成されていたわけです。
話は変わりますが、ネプチューン海山という尺八家がいます。彼は誰に対しても同じフランクな態度で接します。初対面の人に対しても友好的な友人感覚です。これは無名時代から一貫して変わりません。そして、これはアメリカ人に広く見られる長所です。程度の問題こそあれ何処の国にも居ますから、「アメリカのバカ」の話は置いといて、こういう点は「伝統」の悪い方の面を受け継がなかったアメリカ人ならではだと思います。そして、もう一つ、アメリカの教育は「正しい認識に基ずく自己主張」です。「正しい」とは相対的なものでもありましょうから、ここを幼児の時からのディベイトで訓練しているのです。「フランクな友好性と強い自己主張が併存している」、アメリカ人と接した人は、こういった感想を誰でも持っていると思います。時に「やりきれない思い」もするでしょうが、同時に「見習いたい」とも思いませんですか?。
面倒な事は言わないが「相互の自由の尊重」、これが近代哲学の目指すところではないでしょうか。法政三曲会は、まさにそうでしたし、日本社会が、そこへ向かっている事は間違いないでしょう。クラブの人間関係は、それがどうであっても、やがて社会生活を前に解体します。でもクラブ経験は思考の奥に、しぶとく残るんですわ。
この日本で、「相互自由の尊重」が一番遅れているのが学問、芸術の分野ですわな。だって、優劣、白黒が具体的につかない世界ですもの。中で、最も遅れた場所の一つが尺八界でした。「他の邦楽はもっとだぞ」、なんて云うのは止めましょうよ。だって「どうせ先が無い世界」の事を言ってどうなりますかいな。
尺八界は今、「伝統の呪縛」を脱しつつあります。そうしたのは、かつての大学クラブの連中ですよ。だって、今や尺八プロの大半だもの。大学クラブの尺八の連中は、やっぱり、ある程度共通した価値観を持っています。卒業後何十年たっていても、大学は違えど、今でも、久しぶりに話すと一致点は多い。そうです、それも哲学です・・・。
私は前から江戸期以前の日本に哲学者が存在したのか疑問でしたから、その辺りをただしました。空海や親鸞、道元、あるいは千利休なんかは哲学者でもあるのでしょうか。禅ほど顕著ではないけれど、奈良朝以来、日本人の価値観の奥に深く隠れて生息している華厳経、その日本における最初の解説者・審祥は?。
こういう段階では、哲学と芸術、宗教とが私の水準では分離出来ませんので、その辺の事を前から、知ってる人に会う機会が有れば訊いてみたいと思っていました。これって様々な分野の専門家と会話出来る尺八屋の特権ですわ。
私のいた頃、そう50年前の法政大学三曲会はノンポリの集りでした。そりゃ大学生でしたから、個人個人には思想の傾向は有りましたよ、でも集団に属して思想を具体的な行動にしないのがノンポリです。
人間の三大慾。すなはち食欲、睡眠欲、性欲。これが第一番目。次いで名誉欲、自己顕示欲、達成慾が有り、思想、哲学、宗教は、その下位に存在するものです。私が在籍した時代、つまり一緒のクラブ活動をした人達に関しては上の代も下の代もそうでした。ですから、そういうタイプの人でないと、居心地が悪いのでしょう、すぐ辞めました。だって、「ああ、そんな小難しい事はどうでも良い。センズリ一発、酒なら3合で解決する」ですからね。エッ、私?。私はいくら何でも、もう少し親切でしたよ。若松という後輩にですが、池袋に行けば東武日光行の切符が買えると教えましたわ。心変わりした時の為に、割引の有る往復切符にする事までアドヴァイスしたくらいです。「そんな事をして、もし本当に日光に行って華厳の滝の巌頭に立ったらどうするんだ」ですと。絶対に有り得ない。そんなヤツが三曲会に入ると思う?。ましてや私なんかに心の悩みを打ち明けたりしねえよ。
こういう当時の雰囲気は、私と同一期に在籍した人に哲学科が皆無だったことでも分かります。言ってみれば、神という「普遍的同意」を基盤に持たない稀有な教養社会を達成した日本の縮図ですよ。でも、日本社会より哲学的に、より進んでいたと考えられる点は、「相互自由の尊重」が高度に達成出来ていた事です。これは先輩、主として私の1年上の人達6人の人柄によるものだと思います。
プライベートでは上も下もアダナで呼んで相手を侮りあい、時により口汚く罵っても、相手の「自分をコケにする権利」を普通の事として受け入れていましたし、公式の会合では発言の自由は意識しないレベルにまで保証されていました。ですから意図せずに、かなり高度な哲学的境地が達成されていたわけです。
話は変わりますが、ネプチューン海山という尺八家がいます。彼は誰に対しても同じフランクな態度で接します。初対面の人に対しても友好的な友人感覚です。これは無名時代から一貫して変わりません。そして、これはアメリカ人に広く見られる長所です。程度の問題こそあれ何処の国にも居ますから、「アメリカのバカ」の話は置いといて、こういう点は「伝統」の悪い方の面を受け継がなかったアメリカ人ならではだと思います。そして、もう一つ、アメリカの教育は「正しい認識に基ずく自己主張」です。「正しい」とは相対的なものでもありましょうから、ここを幼児の時からのディベイトで訓練しているのです。「フランクな友好性と強い自己主張が併存している」、アメリカ人と接した人は、こういった感想を誰でも持っていると思います。時に「やりきれない思い」もするでしょうが、同時に「見習いたい」とも思いませんですか?。
面倒な事は言わないが「相互の自由の尊重」、これが近代哲学の目指すところではないでしょうか。法政三曲会は、まさにそうでしたし、日本社会が、そこへ向かっている事は間違いないでしょう。クラブの人間関係は、それがどうであっても、やがて社会生活を前に解体します。でもクラブ経験は思考の奥に、しぶとく残るんですわ。
この日本で、「相互自由の尊重」が一番遅れているのが学問、芸術の分野ですわな。だって、優劣、白黒が具体的につかない世界ですもの。中で、最も遅れた場所の一つが尺八界でした。「他の邦楽はもっとだぞ」、なんて云うのは止めましょうよ。だって「どうせ先が無い世界」の事を言ってどうなりますかいな。
尺八界は今、「伝統の呪縛」を脱しつつあります。そうしたのは、かつての大学クラブの連中ですよ。だって、今や尺八プロの大半だもの。大学クラブの尺八の連中は、やっぱり、ある程度共通した価値観を持っています。卒業後何十年たっていても、大学は違えど、今でも、久しぶりに話すと一致点は多い。そうです、それも哲学です・・・。
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