道
- 2021/03/27
- 11:34
私が中学に入って、まず入部したのは剣道部です。理由は「喧嘩に役立つから」です。俗に「剣道三倍段」と言われる様に、「剣道の初段は、喧嘩になると柔道や空手の3段に匹敵する」という事です。これは妙に説得力が有るでしょう、こういう事をマトモに信じるのが、純真な少年というものです。実際には?。たぶん本当ですよ。何しろ棒きれを持つのですから。
昭和30年代ですから、少年が希求するマズ第一は「喧嘩に強くなりたい」です。勉強なんて、いくら出来たって教師や親に褒められるだけの事。男子校で幅を利かすのは、何たって喧嘩の強さダスわな。
でも経験を積むと、やがて中学高校レベルの喧嘩、それも「売る」でなく「買う」の場合は、格闘技の訓練より度胸だと分かってきます。
中学生のやる喧嘩では、関節技や投げ、打撃技は訓練精度が未だ低いので、たいして有効ではありません。当然、噛みつき、目つぶし、急所ウチ、髪の毛掴み等の、人間が耐えられない攻撃が威力を発揮します。要は「相手がどうなっても良い」という度胸です。仮に自分がノサレタにせよ、相手も多大な痛手を被るわけで、「必ずトコトンまでやる」の覚悟でやれば、2度と同じ相手から喧嘩を売られる事は無いはずです。理論的には、相手または自分が大怪我したりカタワになる事も有るわけでしょうね。でも男子校で虐められる側に立ったら地獄ですぜ。かのシェークスピアも言ってるでしょうが、「臆病者は千度死す。なれど勇者はただ一度のみ」って・・・。幸い私の中学高校では、目に余る虐めは有りませんでしたがね。
喧嘩度胸を身に付ける事の大切さが分っていたればこそ、昔の親は「勝つまで家に帰ってくるな」と子供に言ったのです。私も子供達に、「絶対に他人をいじめるな。そして自分がいじめられた場合は、徹底的にやり返せ」と言い続けました。
男子にとって何より大切な喧嘩に強くなる為。これが格闘技の言わば本道。それと別に、「人に勝つためでは無く、自分の心に勝つため」というコジレ系の邪道と言うべき概念が存在しています。半世紀以上も前だと、、親や教師、あるいは漫画によって、早くから洗脳された日本男児以外には理解し難い心境でした。ですから、日本では当たり前だと皆が惰性で思っていますが、外国ではキョトンとされます。柔道でも空手でも、欧米に広げた初期の段階では、始める動機を、インテリ層でも全員がハッキリ口に出して、「自分や親しい人を守る為、(つまり喧嘩に勝つために)護身術としてやる」と言ったそうです。
「精神鍛錬やマナー(礼儀)習得の為に、どうして格闘技をやる必要が有るのか?」、当然の疑問です。格闘技をしっかりやると本当に優れた人格を形成出来るのか?、段が上がると人間性も高まるのか?。「そんなはずがあるもんか」と世の大人は言うでしょう。尺八道九段のミーが人格高潔なのは、これはタマタマ、いわば例外なんよ。
でも、こういう疑問は無意味です。真偽の判定などは科学、学問の分野であって、こと文化とか芸術は、「それは、そういう事になっている」がスタート地点ですわな。つまり前提です。だからこそ、「神や霊魂は存在しない」とは大体の大人が思っていても、宗教は成立するのですがな。
現在、「道」を称する日本文化で最も世界に広まったのは柔道でしょう。競技人口だけ見ても、ロシア、ブラジル、フランスは日本より多いと言われています。その海外に広めた、創世記のエピソードの数々は文化比較として読むと興味深いですね。
一時期、日本でも話題になったブラジリアン柔術、創始者はコンデ・コマこと前田光世です。プロレスのマシオ駒さんが「メキシコで、コンデ・コマの親類かと訊かれたよ。お前、コンデ・コマって知ってるか?」と言ってましたから、「彼も私達と同じ早稲田中学ですよ」と云ったら目を真ん丸にして驚いていました。それは脱線ですが、初めの頃の柔道普及とは、まるっきり他流試合、それも果し合いみたいなものだったらしいのです。確かに着衣を着た状態での格闘ですから、柔道は強かったと思います。そこで有効性を立証してからでないと信用されないのでしょう。そのうちに気がついたら、柔道の「礼」という精神性が、世界中の人に受け入れられていました。だって単に相手を屈服させるだけだったら、マーシャルアーツで良いんでしょう。
尺八は柔道ほどではないまでも、このところの海外への普及ぶりは目を見張ります。「そうは言うけど、まだ誰も知らないよ」と外国人に言われたって気にする事はありませんや。だって、まだ濫觴期なんだもの。どんなに世界に広まったものでも、「始まりの時期」は有ったのですから。
尺八は、初めは、むしろ精神性が欧米人を魅了しました。欧米に演奏に行った尺八家達が持ち帰った現地の新聞に載った論評なんかを読むと、感動させたのか勘違いさせたのか、首をひねることも有りましたよ。今は音楽演奏家として立派に通用する尺八家が続出しているので、ここからが本格的な海外普及のスタートとなります。楽器演奏の能力でも信用を勝ち得ています。
でも、日本文化の共通項であり、「道」という言葉で一括りされる日本型文化性に、外国人達が魅かれている点に気が付かないと、やはり尺八の魅力の重要な側面を見落とすことになると思います。
そう言った面での伝道にこそ、「爺ちゃんパワー」が発揮出来るはずですよ。「爺ちゃんの多さ」では日本尺八界は圧倒的ですからね。
昭和30年代ですから、少年が希求するマズ第一は「喧嘩に強くなりたい」です。勉強なんて、いくら出来たって教師や親に褒められるだけの事。男子校で幅を利かすのは、何たって喧嘩の強さダスわな。
でも経験を積むと、やがて中学高校レベルの喧嘩、それも「売る」でなく「買う」の場合は、格闘技の訓練より度胸だと分かってきます。
中学生のやる喧嘩では、関節技や投げ、打撃技は訓練精度が未だ低いので、たいして有効ではありません。当然、噛みつき、目つぶし、急所ウチ、髪の毛掴み等の、人間が耐えられない攻撃が威力を発揮します。要は「相手がどうなっても良い」という度胸です。仮に自分がノサレタにせよ、相手も多大な痛手を被るわけで、「必ずトコトンまでやる」の覚悟でやれば、2度と同じ相手から喧嘩を売られる事は無いはずです。理論的には、相手または自分が大怪我したりカタワになる事も有るわけでしょうね。でも男子校で虐められる側に立ったら地獄ですぜ。かのシェークスピアも言ってるでしょうが、「臆病者は千度死す。なれど勇者はただ一度のみ」って・・・。幸い私の中学高校では、目に余る虐めは有りませんでしたがね。
喧嘩度胸を身に付ける事の大切さが分っていたればこそ、昔の親は「勝つまで家に帰ってくるな」と子供に言ったのです。私も子供達に、「絶対に他人をいじめるな。そして自分がいじめられた場合は、徹底的にやり返せ」と言い続けました。
男子にとって何より大切な喧嘩に強くなる為。これが格闘技の言わば本道。それと別に、「人に勝つためでは無く、自分の心に勝つため」というコジレ系の邪道と言うべき概念が存在しています。半世紀以上も前だと、、親や教師、あるいは漫画によって、早くから洗脳された日本男児以外には理解し難い心境でした。ですから、日本では当たり前だと皆が惰性で思っていますが、外国ではキョトンとされます。柔道でも空手でも、欧米に広げた初期の段階では、始める動機を、インテリ層でも全員がハッキリ口に出して、「自分や親しい人を守る為、(つまり喧嘩に勝つために)護身術としてやる」と言ったそうです。
「精神鍛錬やマナー(礼儀)習得の為に、どうして格闘技をやる必要が有るのか?」、当然の疑問です。格闘技をしっかりやると本当に優れた人格を形成出来るのか?、段が上がると人間性も高まるのか?。「そんなはずがあるもんか」と世の大人は言うでしょう。尺八道九段のミーが人格高潔なのは、これはタマタマ、いわば例外なんよ。
でも、こういう疑問は無意味です。真偽の判定などは科学、学問の分野であって、こと文化とか芸術は、「それは、そういう事になっている」がスタート地点ですわな。つまり前提です。だからこそ、「神や霊魂は存在しない」とは大体の大人が思っていても、宗教は成立するのですがな。
現在、「道」を称する日本文化で最も世界に広まったのは柔道でしょう。競技人口だけ見ても、ロシア、ブラジル、フランスは日本より多いと言われています。その海外に広めた、創世記のエピソードの数々は文化比較として読むと興味深いですね。
一時期、日本でも話題になったブラジリアン柔術、創始者はコンデ・コマこと前田光世です。プロレスのマシオ駒さんが「メキシコで、コンデ・コマの親類かと訊かれたよ。お前、コンデ・コマって知ってるか?」と言ってましたから、「彼も私達と同じ早稲田中学ですよ」と云ったら目を真ん丸にして驚いていました。それは脱線ですが、初めの頃の柔道普及とは、まるっきり他流試合、それも果し合いみたいなものだったらしいのです。確かに着衣を着た状態での格闘ですから、柔道は強かったと思います。そこで有効性を立証してからでないと信用されないのでしょう。そのうちに気がついたら、柔道の「礼」という精神性が、世界中の人に受け入れられていました。だって単に相手を屈服させるだけだったら、マーシャルアーツで良いんでしょう。
尺八は柔道ほどではないまでも、このところの海外への普及ぶりは目を見張ります。「そうは言うけど、まだ誰も知らないよ」と外国人に言われたって気にする事はありませんや。だって、まだ濫觴期なんだもの。どんなに世界に広まったものでも、「始まりの時期」は有ったのですから。
尺八は、初めは、むしろ精神性が欧米人を魅了しました。欧米に演奏に行った尺八家達が持ち帰った現地の新聞に載った論評なんかを読むと、感動させたのか勘違いさせたのか、首をひねることも有りましたよ。今は音楽演奏家として立派に通用する尺八家が続出しているので、ここからが本格的な海外普及のスタートとなります。楽器演奏の能力でも信用を勝ち得ています。
でも、日本文化の共通項であり、「道」という言葉で一括りされる日本型文化性に、外国人達が魅かれている点に気が付かないと、やはり尺八の魅力の重要な側面を見落とすことになると思います。
そう言った面での伝道にこそ、「爺ちゃんパワー」が発揮出来るはずですよ。「爺ちゃんの多さ」では日本尺八界は圧倒的ですからね。
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