共生
- 2021/09/07
- 17:10
パラリンピックも終わりました。オリンピック競技で心から凄いと思うのは体操です。だって他は記録とかはともあれ、ともかく自分でも出来ますもの。だけどパラリンピックは驚異です。よくあんなことが出来るもんだと心底感心します。私も身障者の末席に連なる者として、まだまだやれるぞ、と勇気を貰いました。
私の子供の頃は身障者は日常の普通の光景でした。私は中学まで二子玉川にいましたが、昭和30年代に二子玉川に住んでいた人なら、「オッコ」と呼ばれる青年がいた事を記憶しているはずです。彼を知らなければ経歴詐称、絶対にニコタマにいなかった。「チャワンムシの唄」を歌えない鹿児島人がいないのと同様です。
オッコは推定20代後半、背が高く目立ちました。知能はたぶん3歳児程度。いたってオトナシイ男で、常にニコニコとしていて町中を歩き回っていて、「オッコ、オス」と言うと必ず笑顔で「オ~っス」と返すのが町の風景でした。勿論、尊敬してる人なんて居ようはずも無いけれど、イジメるヤツも皆無で、私達ガキ連中は、時に食べているパンや菓子を分けていましたが、会話が全く成立しないので、一緒に遊ぶとこまではいきませんでしたな。でも、オッコも楽しそうでしたし、私等にとっても普通の光景でした。
二子玉川から路面電車で8キロ行くと渋谷です。ここには、いつも傷痍軍人が3,4人いて白い病人服、軍帽、松葉杖。アコーデオンで「戦友」とか「異国の丘」とかを弾きながら口説を述べていました。「私ダレソレはドコ何処の戦線にて腕(あるいは足、両目)を失い、こうして・・・」。
今の65以上の人はハッキリ憶えているはずです。祖父は必ず寄付をしていました。父をはじめ「傷痍手当をもらっているはずだ」と言って募金箱を無視する人も多かったのですが、傷痍手当が幾らであれ、十分でないからこそ駅前や電車の中で寄付を求めるのでしょう。私は祖父の姿勢に賛同します。
こういう身障者は発展途上国では今も普通に見ますし、インドにいたってはカタワは「御貰い」の重要アイテムで、もはや産業と化していますわ。なんせ半端じゃない、一番驚いたのは犬の首輪をつけて鎖でつながれた若い男です。両腕、両足が肘、膝から先が無く、見たら必ず施しには応じる私も、流石にその時は圧倒されて金を出せませんでしたわ。インドに詳しい人に訊くと、乞食を生活の手段にする為に、幼児期に人為的に手足を切り取るのだそうです。多くのインド事情通がクチを揃えて、そう言いますから本当なのでしょう。これに正直言ってコメントは出来ません。悪いには違いないですが、何処の親だって好んで自分の子供の手足を切り取るわけが有りませんや。子供が生きていける為です。ただ、そういう社会が一日も早く無くなれば良いと願うばかりです。
私の少年時代はキャバレーの入り口には、シルクハットに燕尾服姿で小人(コビト)が立っていましたし、プロレスやお笑いでも活躍していてテレビでショッチュウ見たものです。それってワライモノにしているんですか?。「気の毒な人を見世物にしてはいけない」と云う人の心象風景こそ覗いてみたいものです。
パラリンピックで活躍している人達は一部の強い人達で、かつ成功した人達です。それを「凄い凄い」で済ますのではなく、せめて身障者を家の奥に隠さない、日常の風景になれば良いと私は思っているんですよ。
この邦楽の世界は、ほんの半世紀前には盲人達が活躍している世界でした。今は視力を失った人に邦楽家を勧める人っているとは思えません。「お手引き」を務める弟子もいなくなりましたし、新しい曲の譜面読み等の問題も有りますよね。でも、最も重要なのは「邦楽では生活できなくなった」です。
尺八でも盲人が際立って多い地域が有ります。香川県です。故・木村岳宇山先生が盲学校の生徒達に尺八を教え、杉山至山さんはじめ優れた尺八家を育てました。身障者のチャレンジを阻むもの、それは「カタワは恥ずかしい」という精神風土です。
地元の民謡の会の人に言われました。「大橋さんはエライわねえ。前と変わらず仕事しているじゃない。皆な脳梗塞になると会に出てこないのよ。半身不随だって車椅子だって、歌は歌えるじゃない。それを人前に出られない、恥ずかしいって」。私は別に褒めらる様な事はしていませんが、半身不随は「なっちゃたもの仕方がネエや、別に名誉ではないけど恥ずかしいと思った事も無い。それでも工夫次第で仕事は出来る」のスタンスです。
だってね、若い時からプロレスを間近に見てますもの。あれって実はパラリンピックと言っても良い世界なのですよ。ジャイアント馬場は30代でもう掌が顔に着きませんでした。肘関節が曲がらなくなっていたからです。だから葉巻を吸う時、手を顔の真横から出す不自然なポーズで吸うのです。大仁田は30で膝が45度以上曲がりませんでした。思いつくママに言うと自殺したケリー・フォン・エリックは両足首から先が義足、テリー・ファンクは膝と腰が「バカ」になっていましたし、ビル・ロビンソンは片目が義眼、猪木は40前に重度の糖尿病、そして痛風、ミスター珍は週3透析(第1級障害者)等々、ほとんど皆が何らかの障害を抱えていました。でも、パラリンピックと違い表沙汰に出来ないから、生きる為に隠して仕事してるんですわ。
かくいう私、実は町の登録では健常者登録なんですよ。どう見たって健常者じゃない私が、そうなったのは一口で言うと「行政の都合」なのでしょうね。「身障者手帳とか納税とかの優遇制度は国の範囲なので問題はない、だから町の認定では健常者に戻ったという事にしてくれないか」と10年前に言われたので、どうでも良いけど戻りました。
身障者でも尺八が吹けたら素敵だと思いませんかな。だから、片手で吹ける尺八を開発して販売しているのです。そしたら、思わぬ提案を受けました。「片手で尺八を吹いて、片手でキーボードを操作する為に使いたい」ですと。身障を日常的に受け入れた所から、私はまた別の夢が広がりました・・・。
私の子供の頃は身障者は日常の普通の光景でした。私は中学まで二子玉川にいましたが、昭和30年代に二子玉川に住んでいた人なら、「オッコ」と呼ばれる青年がいた事を記憶しているはずです。彼を知らなければ経歴詐称、絶対にニコタマにいなかった。「チャワンムシの唄」を歌えない鹿児島人がいないのと同様です。
オッコは推定20代後半、背が高く目立ちました。知能はたぶん3歳児程度。いたってオトナシイ男で、常にニコニコとしていて町中を歩き回っていて、「オッコ、オス」と言うと必ず笑顔で「オ~っス」と返すのが町の風景でした。勿論、尊敬してる人なんて居ようはずも無いけれど、イジメるヤツも皆無で、私達ガキ連中は、時に食べているパンや菓子を分けていましたが、会話が全く成立しないので、一緒に遊ぶとこまではいきませんでしたな。でも、オッコも楽しそうでしたし、私等にとっても普通の光景でした。
二子玉川から路面電車で8キロ行くと渋谷です。ここには、いつも傷痍軍人が3,4人いて白い病人服、軍帽、松葉杖。アコーデオンで「戦友」とか「異国の丘」とかを弾きながら口説を述べていました。「私ダレソレはドコ何処の戦線にて腕(あるいは足、両目)を失い、こうして・・・」。
今の65以上の人はハッキリ憶えているはずです。祖父は必ず寄付をしていました。父をはじめ「傷痍手当をもらっているはずだ」と言って募金箱を無視する人も多かったのですが、傷痍手当が幾らであれ、十分でないからこそ駅前や電車の中で寄付を求めるのでしょう。私は祖父の姿勢に賛同します。
こういう身障者は発展途上国では今も普通に見ますし、インドにいたってはカタワは「御貰い」の重要アイテムで、もはや産業と化していますわ。なんせ半端じゃない、一番驚いたのは犬の首輪をつけて鎖でつながれた若い男です。両腕、両足が肘、膝から先が無く、見たら必ず施しには応じる私も、流石にその時は圧倒されて金を出せませんでしたわ。インドに詳しい人に訊くと、乞食を生活の手段にする為に、幼児期に人為的に手足を切り取るのだそうです。多くのインド事情通がクチを揃えて、そう言いますから本当なのでしょう。これに正直言ってコメントは出来ません。悪いには違いないですが、何処の親だって好んで自分の子供の手足を切り取るわけが有りませんや。子供が生きていける為です。ただ、そういう社会が一日も早く無くなれば良いと願うばかりです。
私の少年時代はキャバレーの入り口には、シルクハットに燕尾服姿で小人(コビト)が立っていましたし、プロレスやお笑いでも活躍していてテレビでショッチュウ見たものです。それってワライモノにしているんですか?。「気の毒な人を見世物にしてはいけない」と云う人の心象風景こそ覗いてみたいものです。
パラリンピックで活躍している人達は一部の強い人達で、かつ成功した人達です。それを「凄い凄い」で済ますのではなく、せめて身障者を家の奥に隠さない、日常の風景になれば良いと私は思っているんですよ。
この邦楽の世界は、ほんの半世紀前には盲人達が活躍している世界でした。今は視力を失った人に邦楽家を勧める人っているとは思えません。「お手引き」を務める弟子もいなくなりましたし、新しい曲の譜面読み等の問題も有りますよね。でも、最も重要なのは「邦楽では生活できなくなった」です。
尺八でも盲人が際立って多い地域が有ります。香川県です。故・木村岳宇山先生が盲学校の生徒達に尺八を教え、杉山至山さんはじめ優れた尺八家を育てました。身障者のチャレンジを阻むもの、それは「カタワは恥ずかしい」という精神風土です。
地元の民謡の会の人に言われました。「大橋さんはエライわねえ。前と変わらず仕事しているじゃない。皆な脳梗塞になると会に出てこないのよ。半身不随だって車椅子だって、歌は歌えるじゃない。それを人前に出られない、恥ずかしいって」。私は別に褒めらる様な事はしていませんが、半身不随は「なっちゃたもの仕方がネエや、別に名誉ではないけど恥ずかしいと思った事も無い。それでも工夫次第で仕事は出来る」のスタンスです。
だってね、若い時からプロレスを間近に見てますもの。あれって実はパラリンピックと言っても良い世界なのですよ。ジャイアント馬場は30代でもう掌が顔に着きませんでした。肘関節が曲がらなくなっていたからです。だから葉巻を吸う時、手を顔の真横から出す不自然なポーズで吸うのです。大仁田は30で膝が45度以上曲がりませんでした。思いつくママに言うと自殺したケリー・フォン・エリックは両足首から先が義足、テリー・ファンクは膝と腰が「バカ」になっていましたし、ビル・ロビンソンは片目が義眼、猪木は40前に重度の糖尿病、そして痛風、ミスター珍は週3透析(第1級障害者)等々、ほとんど皆が何らかの障害を抱えていました。でも、パラリンピックと違い表沙汰に出来ないから、生きる為に隠して仕事してるんですわ。
かくいう私、実は町の登録では健常者登録なんですよ。どう見たって健常者じゃない私が、そうなったのは一口で言うと「行政の都合」なのでしょうね。「身障者手帳とか納税とかの優遇制度は国の範囲なので問題はない、だから町の認定では健常者に戻ったという事にしてくれないか」と10年前に言われたので、どうでも良いけど戻りました。
身障者でも尺八が吹けたら素敵だと思いませんかな。だから、片手で吹ける尺八を開発して販売しているのです。そしたら、思わぬ提案を受けました。「片手で尺八を吹いて、片手でキーボードを操作する為に使いたい」ですと。身障を日常的に受け入れた所から、私はまた別の夢が広がりました・・・。
スポンサーサイト