第二芸術
- 2021/11/03
- 11:32
大学の各学部には「看板教授」というのがいましてな。今は主にテレビに出てる人のことを言いますが、昔だと「学問の世界」でそれなりに名を成した学者さん達で、一般受けするかどうかは別として、マアそれなりの集客力は有ったものです。その証拠に、私が入学した当時の法政大学文学部の看板教授は小田切秀雄さんでしたが、閑古鳥が鳴く他の教室と違って、ここは常に満員でした。
小田切さんはマルクス主義の信奉者ですから、当時のヒダリが大体そうだったように伝統とか「和の文化」とか言うのが嫌いだったですね。当時の大学生ことに「マルクス主義の牙城」とまで言われていた法政では、筋金入りの共産主義者はあまり多くはなかったと思いますが、「心情的にはヒダリ」という人は半分以上だったように思います。だからと言うべきか、世のオトナからは「学者とか学生、いわゆる世間知らず達の思想」と嗤われていました。だって、本来はヒダリのシンパであるはずの、ドカタとか工員とかで「共産主義賛同」とか言う人って会った事が無いんですよね。ドカタ飲屋でアカ学生の御談義にドカタが横から口を出す、よく見た光景です。「ニイチャンよう、さっきから聞いてると共産主義がヨッポド良いみてえだけど、それならどうしてアッチは皆が逃げたがってるんだよ?」。これで勝負有りでしたな。まあそれは、もう結論の出た事だから良いとして、ともかく小田切さんの短歌批判を読んでも、伝統とか日本的なモノへのケギライは半端じゃないですね。
そういうので、もっと有名なのが戦後すぐに出た桑原武夫の俳句批判、いわゆる「第二芸術論」があります。これは我々、「伝統芸術」の世界で飯を喰ってる者達にとっても、深く感心させられる論文です。イヤですよ、だからって全面的賛同なんてしないでよ、それじゃ昔のアカと同じだからね・・・。
ともかく桑原さんの主張はこうです。「大家の作った俳句の中に素人の作品を入れても誰も区別が出来なかった。つまり大家とか名句とかには、客観的な価値判断の基準が存在せず、その派閥ごとの位置付けで決まっている。そもそも、あんな短い文句で人間の真情なんか表現できない。だから俳句とは老人や暇人達の芸であり、芸術では無く、しいて言うなら第二芸術とでも呼ぶべきもの」。
今のテレビの「俳句論評番組」なんか見ると、どこまでが脚本かハッキリしない所が有りますが、「エッ良いの?」という有名句のパクリが散見する所から見ても、少なくともゲストの句の多くはテレビが用意したものだと思います。エッ、「根拠を示せ」ですかいな。では、1例を。私の母校の教授、ナントカママですよ、「トンネルを いずれば日本ぞ 茶摘み唄」という句で、「いずれば日本」という発想が素晴らしいと褒められていましたが、アレ、菊舎の有名な句だと知らないの?。山門をトンネルに変えただけ。しかもトンネルと日本の間には何の関連性も無い。修学旅行で宇治の萬福寺に行った中学生に嗤われる・・・。
でも、指導員のナントカ先生が激賞しようと貶そうと、あれは芸術番組では無くショーですから、メクジラをたてたら野暮というもんです。
「第二芸術論」の指摘の多くは、邦楽界にこそ適用したら良い様なものです。芸大で尺八指導をしていた人達の中に、おそらく指導を受けていた学生の誰よりも下手だった人達がいます。複数形ですから、何かのトンデモナイ間違いではないのです。どうしてかは私達プロには手に取る様に分かります。でも、こういう「日本的な芸術の在り方」にプロなら一定の理解を示すと思います。
桑原さんへの俳句の側からの反論も、当然十分に納得できます。、桑原さんの鑑賞能力の低さ、俳句に対する基本的反感を指摘しますが、私は尺八のプロですからチョット異なる感想を持ちます。「第二芸術論」での桑原さんの指摘は正しい。でも、そういう芸術の在り方があって、それもまた正しい。かつてゴッホの絵が評価されなかったのも、抽象画の展覧会で素人の絵がカラカウ意図でまぎれこまされても誰も分からないのも、私の若い頃にポラックの評価が専門家の間ですら真っ二つに分かれていたのも、「芸術って、そもそも、そう云うモノ」と思えば納得出来ます。多くの人は「芸術の価値」と「芸術の市場における価値」を混同していますよ。
邦楽だって、そりゃ曲の演奏なら判断が出来ますがな。でもね、もっと時間が短い、つまりは一瞬の美とかになると、こりゃ「判断」って問題じゃないわ。つまり尺八の「一音を錬る」とか箏の「余韻の美しさ」なんて、結局は俳句と同じ。だから究極の「第二芸術」ですよ。でも、俺達って、それが好きなんです。「そんなに短くては人間の真情は表現できない」とか言われたって、「そうかも。で、それが何か?」くらいの感想です。俳句も好きでやってる人は尺八より桁違いに多い(私は別に好きじゃないけどね)よね。それに対して「第二芸術」ってレッテルを貼ったって、「なにか低く思われているような気がする」とは思うでしょうが、それでどうという事はありませんわ。
だって高邁な理論で構築されてたって、人が納得するかと言ったら、それはまた別だわ。でも「第二芸術論」での指摘を真剣に受け止める事も大切です。でないと「そんなに良いんなら、どうして人が逃げたがるんだよ」みたいになりまっせ。
小田切さんはマルクス主義の信奉者ですから、当時のヒダリが大体そうだったように伝統とか「和の文化」とか言うのが嫌いだったですね。当時の大学生ことに「マルクス主義の牙城」とまで言われていた法政では、筋金入りの共産主義者はあまり多くはなかったと思いますが、「心情的にはヒダリ」という人は半分以上だったように思います。だからと言うべきか、世のオトナからは「学者とか学生、いわゆる世間知らず達の思想」と嗤われていました。だって、本来はヒダリのシンパであるはずの、ドカタとか工員とかで「共産主義賛同」とか言う人って会った事が無いんですよね。ドカタ飲屋でアカ学生の御談義にドカタが横から口を出す、よく見た光景です。「ニイチャンよう、さっきから聞いてると共産主義がヨッポド良いみてえだけど、それならどうしてアッチは皆が逃げたがってるんだよ?」。これで勝負有りでしたな。まあそれは、もう結論の出た事だから良いとして、ともかく小田切さんの短歌批判を読んでも、伝統とか日本的なモノへのケギライは半端じゃないですね。
そういうので、もっと有名なのが戦後すぐに出た桑原武夫の俳句批判、いわゆる「第二芸術論」があります。これは我々、「伝統芸術」の世界で飯を喰ってる者達にとっても、深く感心させられる論文です。イヤですよ、だからって全面的賛同なんてしないでよ、それじゃ昔のアカと同じだからね・・・。
ともかく桑原さんの主張はこうです。「大家の作った俳句の中に素人の作品を入れても誰も区別が出来なかった。つまり大家とか名句とかには、客観的な価値判断の基準が存在せず、その派閥ごとの位置付けで決まっている。そもそも、あんな短い文句で人間の真情なんか表現できない。だから俳句とは老人や暇人達の芸であり、芸術では無く、しいて言うなら第二芸術とでも呼ぶべきもの」。
今のテレビの「俳句論評番組」なんか見ると、どこまでが脚本かハッキリしない所が有りますが、「エッ良いの?」という有名句のパクリが散見する所から見ても、少なくともゲストの句の多くはテレビが用意したものだと思います。エッ、「根拠を示せ」ですかいな。では、1例を。私の母校の教授、ナントカママですよ、「トンネルを いずれば日本ぞ 茶摘み唄」という句で、「いずれば日本」という発想が素晴らしいと褒められていましたが、アレ、菊舎の有名な句だと知らないの?。山門をトンネルに変えただけ。しかもトンネルと日本の間には何の関連性も無い。修学旅行で宇治の萬福寺に行った中学生に嗤われる・・・。
でも、指導員のナントカ先生が激賞しようと貶そうと、あれは芸術番組では無くショーですから、メクジラをたてたら野暮というもんです。
「第二芸術論」の指摘の多くは、邦楽界にこそ適用したら良い様なものです。芸大で尺八指導をしていた人達の中に、おそらく指導を受けていた学生の誰よりも下手だった人達がいます。複数形ですから、何かのトンデモナイ間違いではないのです。どうしてかは私達プロには手に取る様に分かります。でも、こういう「日本的な芸術の在り方」にプロなら一定の理解を示すと思います。
桑原さんへの俳句の側からの反論も、当然十分に納得できます。、桑原さんの鑑賞能力の低さ、俳句に対する基本的反感を指摘しますが、私は尺八のプロですからチョット異なる感想を持ちます。「第二芸術論」での桑原さんの指摘は正しい。でも、そういう芸術の在り方があって、それもまた正しい。かつてゴッホの絵が評価されなかったのも、抽象画の展覧会で素人の絵がカラカウ意図でまぎれこまされても誰も分からないのも、私の若い頃にポラックの評価が専門家の間ですら真っ二つに分かれていたのも、「芸術って、そもそも、そう云うモノ」と思えば納得出来ます。多くの人は「芸術の価値」と「芸術の市場における価値」を混同していますよ。
邦楽だって、そりゃ曲の演奏なら判断が出来ますがな。でもね、もっと時間が短い、つまりは一瞬の美とかになると、こりゃ「判断」って問題じゃないわ。つまり尺八の「一音を錬る」とか箏の「余韻の美しさ」なんて、結局は俳句と同じ。だから究極の「第二芸術」ですよ。でも、俺達って、それが好きなんです。「そんなに短くては人間の真情は表現できない」とか言われたって、「そうかも。で、それが何か?」くらいの感想です。俳句も好きでやってる人は尺八より桁違いに多い(私は別に好きじゃないけどね)よね。それに対して「第二芸術」ってレッテルを貼ったって、「なにか低く思われているような気がする」とは思うでしょうが、それでどうという事はありませんわ。
だって高邁な理論で構築されてたって、人が納得するかと言ったら、それはまた別だわ。でも「第二芸術論」での指摘を真剣に受け止める事も大切です。でないと「そんなに良いんなら、どうして人が逃げたがるんだよ」みたいになりまっせ。
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