再評価
- 2022/01/07
- 22:08
もう15年も前ですが、阿佐ヶ谷の商店街で革製品の店を経営している目黒さん、私の大学の1年先輩です、彼とお酒を飲んでいた時ですが、「朝にな、店の前を掃除していると、よく散歩している谷川俊太郎と会うんだよ」と言うじゃありませんか。目黒さんは学生時代は経営学部でしたが、本当は文学部の方が良かったと思うくらい文学が好きで、谷川俊太郎のファンでもありました。
今は「世界で1番有名な俳人は種田山頭火だ」と言われますが、この山頭火が再評価されて世に知られたのは1970年頃です。それまで長く埋もれていた人で、この人の俳句に感銘を受けて、存在を逸早く教えてくれたのも目黒さんです。ちなみに、それまでの俳人1位は?。クイズにならないですね、その時に御一緒したHA子先輩も卒論のテーマに選んだ松尾芭蕉です。
芭蕉にしろ山頭火にしろ、その名を知らない日本人は珍しい(ハッキリ言って知能程度に?マークが付く人)でしょうが、「この手のモノ」が本当に海外でも評価されるんでしょうか?。だって言葉ですよ、昔の女子大生が陽だまりのベンチかなんかで、ハイネの訳詩を読んで「ああ、」とか溜息をつくような事とも違う様な気がします。俳句なんて「読んでる自分に酔える」ようなモンでもねえでしょうが・・・。
マアそれはともかく、大学の学部とは面白いもので、私のいた当時の法政の話ですが、専門学部にいたからといって、別段その専門知識に詳しいわけではありません。私の経験で言うと、法律は別として、経済学や社会学は文学部所属者の方が良く知っていましたね。でも、これは単に読書量の多さですから、「深く知っている」というわけではないのです。でも法政の文科系で言うと、どの学問にしろ、「それで後で役に立ったか?」と言われれば「そんなはずがネエだろう」と答えると思いますから、そんな上っ面の知識でも「さすがは大学出」と世間は通るのです。
言っ ておきますが、これは極く少数の例外を除いての話ですよ。だって法政大学三曲会のОBにだって、法学部で勉強して弁護士になったヤツもいれば、英文学部出身で立派に英語で身を立てている者だっているんですからね。
そういう点で言うと、私以外では小説や詩を一番読んでいた人は目黒さんです。村上先輩が山本周五郎のシリーズとか、ちょっと特殊ですが1年後輩の高橋照誠山が住井すゑの『橋のない川』を熱心に読んでいたとか有りましたが、総じて法政大学三曲会の男子部員は小説や詩とかいうモンは読まない、他の本も読まない、大切なのは酒食、性欲、そして遊びの一次欲求です。時は「ゲバルトの嵐」が吹き荒れた頃。大学の講義に真面目に出ていると「アイツ馬鹿じゃねえか」と本当に言われた時代なのです。まさか「親がせっかく、4年という時間をやるから大いに遊べと送り出してくれた気持ちを無駄にするような不人情な真似は出来ない」と思ったわけではないでしょうが、社会の情勢が今と違います。就職先なんて幾らでも有ったし、年功序列の学歴社会でしたから、「大学さえ出ていれば、会社に入ってから余程のバカをやらないかぎり、そこそこの人生は送れる。ダイイチ会社は大学での学問なんて初めから信用していない」。大雑把に言うと、そういう感じだったでしょう。
その時代はまた、邦楽界でも丁度、新曲(宮城曲とか新邦楽)が現代邦楽と入れ違う時代で、東京だと気鋭の演奏家は、競ってリサイタルに現代邦楽の委嘱作品を入れるなど、一つの「時代的流行」を作りだしていました。恐ろしく退屈な曲が多く、その当時でも一般の邦楽愛好者からは眉を顰められていましたが、それでも今に残っている曲も少なからず有りまして、それらは邦楽曲のレパートリーの中に確固たる位置を占めています。
ところで、今に残っている現代邦楽曲って、50年前にも「残るだろう」と言われていた曲なんですよ。でも、中に極くわずかですが再評価された曲も有ります。代表的なところで1976年以来の「福田蘭童曲」ですかね。これって再登板した当初は、「大正ロマンみたい。時代遅れの歌謡曲を聞いているような気がする」と観念先行型のコジレ系現代邦楽支持者達からは評判が良くなかったんですわ。でも、余興や結婚式の出し物、つまり素人相手の尺八曲としたら、こんな良いものは有りませんぜ。
多くの、出来てすぐ、場合によっては初演で消えた現代邦楽の中にも再評価されて良いものだって有ると思うのですよ。その時代に、それなりの評価をうけていた作曲家達が真面目に作った曲ですから、聞いてつまらなくとも、骨太で一本筋が通った曲が多かったはずです。その再評価がそろそろ行われても良いんじゃないですかね。
今は昔と違って再チャレンジがしやすい環境です。言うまでも無くユーチューブが有るからです。ここで誰でもが自分が良いと思った曲を世に問う事が可能です。それが時として大きな流れにならないとも限りませんでしょう。
現代邦楽の嚆矢にして、圧倒的な質量で今も邦楽の最高峰に君臨する「三つの断章」、これだって中之島欣一でなかったら正当に評価されたかどうか怪しいものでしょうが。邦楽のもう一人の巨人、宮城道雄の曲みたく「一般受けしない」ですからね。でも、誰かが評価しないと再評価も無いのですからね。邦楽なんてマイナーもマイナーですから、始めなんて「泉の湧き水」で良いと思わなければ。だって、目黒、村上の両先輩、あるいは高橋が熱心に読んでいたからこそ、「そんならオレも読んでみよう」となって私という他の1人に繋がったわけですよね。ハッキリ言って身近の誰かが読んでいなければ『橋の無い川』なんて、あんなツマラナイけど人間と社会の本源を問うた重い小説なんぞ、読むわけがありませんわ。今は大人気で、私はじめファンが極めて多い金子みすずだって再評価される前、そう35年前だと誰も知らなかったんですからね。誰かが始めたんですよ。
音楽も文学も、面白いは大切な事ですが、それだけが良いんではないでしょう。面白くなくたって心にズんと響くものだってありますよ。でも「面白くないもの」は、どうしても埋もれがちになる。私は、あの「欠伸が出る」現代邦楽の消えたものの中にも、革めて世に真価を問える曲が有る様な気がするんです。一般の尺八家と話していると、気の毒なくらい、かつての現代邦楽時代は話題に上りません。でも、その掘り起しを誰かがやれば、大きな流れになる可能性もありますよ・・・。
今の尺八曲、みんな聞いて面白いけど、中で他のジャンルに対して、「どうだ、これが邦楽だ」って胸を張れる曲って有りますか?。
今は「世界で1番有名な俳人は種田山頭火だ」と言われますが、この山頭火が再評価されて世に知られたのは1970年頃です。それまで長く埋もれていた人で、この人の俳句に感銘を受けて、存在を逸早く教えてくれたのも目黒さんです。ちなみに、それまでの俳人1位は?。クイズにならないですね、その時に御一緒したHA子先輩も卒論のテーマに選んだ松尾芭蕉です。
芭蕉にしろ山頭火にしろ、その名を知らない日本人は珍しい(ハッキリ言って知能程度に?マークが付く人)でしょうが、「この手のモノ」が本当に海外でも評価されるんでしょうか?。だって言葉ですよ、昔の女子大生が陽だまりのベンチかなんかで、ハイネの訳詩を読んで「ああ、」とか溜息をつくような事とも違う様な気がします。俳句なんて「読んでる自分に酔える」ようなモンでもねえでしょうが・・・。
マアそれはともかく、大学の学部とは面白いもので、私のいた当時の法政の話ですが、専門学部にいたからといって、別段その専門知識に詳しいわけではありません。私の経験で言うと、法律は別として、経済学や社会学は文学部所属者の方が良く知っていましたね。でも、これは単に読書量の多さですから、「深く知っている」というわけではないのです。でも法政の文科系で言うと、どの学問にしろ、「それで後で役に立ったか?」と言われれば「そんなはずがネエだろう」と答えると思いますから、そんな上っ面の知識でも「さすがは大学出」と世間は通るのです。
言っ ておきますが、これは極く少数の例外を除いての話ですよ。だって法政大学三曲会のОBにだって、法学部で勉強して弁護士になったヤツもいれば、英文学部出身で立派に英語で身を立てている者だっているんですからね。
そういう点で言うと、私以外では小説や詩を一番読んでいた人は目黒さんです。村上先輩が山本周五郎のシリーズとか、ちょっと特殊ですが1年後輩の高橋照誠山が住井すゑの『橋のない川』を熱心に読んでいたとか有りましたが、総じて法政大学三曲会の男子部員は小説や詩とかいうモンは読まない、他の本も読まない、大切なのは酒食、性欲、そして遊びの一次欲求です。時は「ゲバルトの嵐」が吹き荒れた頃。大学の講義に真面目に出ていると「アイツ馬鹿じゃねえか」と本当に言われた時代なのです。まさか「親がせっかく、4年という時間をやるから大いに遊べと送り出してくれた気持ちを無駄にするような不人情な真似は出来ない」と思ったわけではないでしょうが、社会の情勢が今と違います。就職先なんて幾らでも有ったし、年功序列の学歴社会でしたから、「大学さえ出ていれば、会社に入ってから余程のバカをやらないかぎり、そこそこの人生は送れる。ダイイチ会社は大学での学問なんて初めから信用していない」。大雑把に言うと、そういう感じだったでしょう。
その時代はまた、邦楽界でも丁度、新曲(宮城曲とか新邦楽)が現代邦楽と入れ違う時代で、東京だと気鋭の演奏家は、競ってリサイタルに現代邦楽の委嘱作品を入れるなど、一つの「時代的流行」を作りだしていました。恐ろしく退屈な曲が多く、その当時でも一般の邦楽愛好者からは眉を顰められていましたが、それでも今に残っている曲も少なからず有りまして、それらは邦楽曲のレパートリーの中に確固たる位置を占めています。
ところで、今に残っている現代邦楽曲って、50年前にも「残るだろう」と言われていた曲なんですよ。でも、中に極くわずかですが再評価された曲も有ります。代表的なところで1976年以来の「福田蘭童曲」ですかね。これって再登板した当初は、「大正ロマンみたい。時代遅れの歌謡曲を聞いているような気がする」と観念先行型のコジレ系現代邦楽支持者達からは評判が良くなかったんですわ。でも、余興や結婚式の出し物、つまり素人相手の尺八曲としたら、こんな良いものは有りませんぜ。
多くの、出来てすぐ、場合によっては初演で消えた現代邦楽の中にも再評価されて良いものだって有ると思うのですよ。その時代に、それなりの評価をうけていた作曲家達が真面目に作った曲ですから、聞いてつまらなくとも、骨太で一本筋が通った曲が多かったはずです。その再評価がそろそろ行われても良いんじゃないですかね。
今は昔と違って再チャレンジがしやすい環境です。言うまでも無くユーチューブが有るからです。ここで誰でもが自分が良いと思った曲を世に問う事が可能です。それが時として大きな流れにならないとも限りませんでしょう。
現代邦楽の嚆矢にして、圧倒的な質量で今も邦楽の最高峰に君臨する「三つの断章」、これだって中之島欣一でなかったら正当に評価されたかどうか怪しいものでしょうが。邦楽のもう一人の巨人、宮城道雄の曲みたく「一般受けしない」ですからね。でも、誰かが評価しないと再評価も無いのですからね。邦楽なんてマイナーもマイナーですから、始めなんて「泉の湧き水」で良いと思わなければ。だって、目黒、村上の両先輩、あるいは高橋が熱心に読んでいたからこそ、「そんならオレも読んでみよう」となって私という他の1人に繋がったわけですよね。ハッキリ言って身近の誰かが読んでいなければ『橋の無い川』なんて、あんなツマラナイけど人間と社会の本源を問うた重い小説なんぞ、読むわけがありませんわ。今は大人気で、私はじめファンが極めて多い金子みすずだって再評価される前、そう35年前だと誰も知らなかったんですからね。誰かが始めたんですよ。
音楽も文学も、面白いは大切な事ですが、それだけが良いんではないでしょう。面白くなくたって心にズんと響くものだってありますよ。でも「面白くないもの」は、どうしても埋もれがちになる。私は、あの「欠伸が出る」現代邦楽の消えたものの中にも、革めて世に真価を問える曲が有る様な気がするんです。一般の尺八家と話していると、気の毒なくらい、かつての現代邦楽時代は話題に上りません。でも、その掘り起しを誰かがやれば、大きな流れになる可能性もありますよ・・・。
今の尺八曲、みんな聞いて面白いけど、中で他のジャンルに対して、「どうだ、これが邦楽だ」って胸を張れる曲って有りますか?。
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