昨日(24日)、4年前に御亡くなりになった二代目鈴慕先生の軌跡を辿る演奏会に行ってきました。コロナで延期になったわけで、実質的には三回忌追善演奏会です。
青木鈴慕御本人ではなく、鈴慕会そのものの全盛期は初代鈴慕の27回忌追善あるいは33回忌追善演奏会、この辺りに有ったと思います。すなわち1980年代です。
人数も多かった。でも鈴慕会は竹心会(横山勝也)よりは多いものの、最大時でも二百人に欠ける会員数であり、竹盟社(山口五郎)の約6割の規模でしたし、当時は、琴古流でさえ鈴慕会より規模の大きい会は10近く有りました。でも二代先生が自ら称した様に、「鈴慕会は少数精鋭主義」であり、門下に20人を越える尺八界屈指の実力者を擁し、そして皆若かった。
今頑張っている若い人には申し訳ないですが 、私にとって、昨日の会は「在りし日の夢の跡」でしたね。ひとり鈴慕会だけの事ではなく、「社中演奏会」というモノは、何処に行こうと、ほぼ全部がそうです。だから私は、この10年はヨッポドの事が無ければ「尺八おさらい会」には行きません。でも昨日はちょっと泣けてもきました。黒田鈴尊さんですが、良く二代目先生を研究していて、細かい音の処理で、音色が「モロ聞こえ」にならないピアノ音なんか、懐かしさのあまりホロッときましたね。あいにく一人吹きの時間が少なかったので、これから注目して聴きましょう。
二代鈴慕先生を私は「尺八界最高の名人」だと思っています。その魅力は語り尽くせないですが、その音も重大な要素の一つで、「青木さんが吹くと他の尺八でも青木さんの音になるけど、でも、それを作った一番の要因は、あの吹き料(1尺8寸初代鈴慕作)に有るんじゃないかな」と横山勝也先生も言っていたし、他の人からも聞きました。
これには言わば「前振り」が有って、「横山先生は吹き料をしばしば代えますが、どうしてですか?」の私の質問への答えです。「僕だって青木さんみたいな優れた尺八を持っていたら代えないですよ」に続くコメントです。
昭和の終わり頃だったでしょうかね、青木先生が半分冗談で、「誰か私の尺八(1尺8寸吹き料)を1千万で買いませんか?」と言ったとたんに2人が手を挙げました。どうも「大変な名器」の評判が一人歩きしていたようです。
二代先生自身は「そう言う人はいるけどね。大した尺八ではないですよ」と私におっしゃいましたが、別の機会に田中恥山が吹かせて欲しいとせがんだところ、「ほらきた。大橋君の後輩だけあるなあ」と笑って拒否なさいました。その時の理由が「他人に吹かせると歌口が狂うのです」。これを本気に採るほど私も恥山も甘くはないですよ。でも利口な恥山は重ねてねだっだりしません。先生と交わる上で、こういったコツが必要でしたね。
青木先生は、昨日も司会の葛西聖司さんが「古い御弟子さん達に訊くと、死ぬほど怖かったそうです」と話されていましたが、確かに気難しくもあり、なにより怒りの感情を制御出来ない人でした。でも、私は優しい人だとは思っても、怖いと思ったことって有りませんねえ・・・。
話を戻して、この二代先生の吹き料ですが、今も勿論青木家に大切に保管されています。でも三代鈴慕先生に言わせると「鳴らないんですよ」との事。三代目の御子息・滉一郎さんも昨日、葛西さんのインタビューに答えて、「6寸管は自分が使っていますが、8寸はクセが強くて使えないんです」と話しました。
そうだろうと思います。ソモソモ40年以前に作られた尺八に、楽器としてですよ、名器なんて有ったんでしょうか。有ったとして真山でしょうが、ともかくそれも「偶然に出来た何本かの1本」の範囲を越えるものではないでしょう。
今日の中古市場の価格を見ても、40年以前の尺八の大半が「ガラクタとしての価格」です。これが「楽器としての評価」なのですし、また正しい評価だと私も思います。知らないが故に龍風など不当に低く評価されていますが、まあそう言う事はドンナ世界でも有りますからね。
現役で有りながら新管の半値以上が付くのが龍畝、ネプチューンですが、これは新管の入手が困難である為で、価格三分の一水準をクリアするのが真山と泉州と一城だけであるのを見ても、今の真の評価が分かります。ちなみに私の所も三分の一水準ですが、もともとの価格が安いですからね。私の評価は使っているプロ奏者の多さで分かっています。
でも、琴童、四郎、蘭畝は楽器、工芸品としての内容から判断して、不思議な高価格で取引されています。初代鈴慕管は私の見解では、四郎管、琴童管はもとより、蘭畝管をも平均点では上回ると思います。でも中古相場では四郎、蘭畝のワンランク、琴童よりツーランク下。これは当時の提供数が多かった為、今日でも容易に入手出来る事が大きいと思います。
初代鈴慕管は、鈴慕会以外でも晴風会、伶風会などの琴古流の大所に需要が有りました。それに宮城道雄との関係で、吉田晴風、広門伶風の社中では、当時珍しかった1尺6寸管を使うのです。また初代鈴慕自身も2尺管の需要を作り出しました。
こういった点が、基本的に「社中内尺八」であった四郎管、蘭畝管と違いますし、また戦後の昭和30年まで生産が有りましたから、「推定生涯生産数が千本」の琴童の様に、少ないうえに、戦災で失われて補充出来なかったわけでも無いです。初代鈴慕は、毎日の午前中3時間を製管に充てていましたから(午後はパチンコ、夜はレッスン)、推定では月3,4本の生産が有ったはずで、地方在住のハンディが大きかったのが、勝也先生の活躍も有って注文が激増した最後の15年間でも生産が毎月2本の蘭畝や、それさえ出来なかったと言われる四郎管より提供数は多かったはずです。
でも、所詮は古いタイプの尺八で、名器の存在を疑わせるものです。こういう古い有名管は今日ほとんどが外国人バイヤーの手に落ちています。経路をたどると、私が確認した限りでは、「コレクション。実際は使われていない」との事でした。
でも、こういった現象が通用するのも文化だからです。日本刀の名品を「武器」として集めている人はいませんよね。織部の茶碗だって「実際にお茶を飲むんだったら使いにくい」という人がいたって、それはそれ。
尺八の有名品の相次ぐ海外流失をし嘆く人がいても、「良いじゃないですか。持ち主が死んで棺桶に入れられた尺八なんて、それより多いですよ。何処の国に住んでいたって、尺八を愛してくれる人に所有されるのが一番だと思いませんか」と答えています。
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