円安
- 2022/07/21
- 11:37
チョット前まで「物価を上げる政策」に賛同してた人達が、今度は「円の下落を止めろ、物価を上げるな」ですからね。テレビの「視聴率稼ぎ」や週刊誌に振り回されて、そんなに「どっちに転んでも心配」で、よく身が持ちますね。
私が物心ついた時期から大学3年、つまり1971年夏まで1ドルは360円でした。しかも「固定レート」です。それが「円を上げない限り日本の一人勝ちで、このままだと我々はやっていけない」という諸外国、主にアメリカの圧力で円を高くする事になりました。「ニクソンショック」と言われるものが有りましてね、実態は米ドルの下落です。
この時(スミソニアン合意=1ドル308円))は概ね皆も「まあ仕方が無い」と受け止めていましたが、すぐに再切り上げが避けられない状況になりました。でも私達は大学生ですからね、もっと超然としていましたよ。そんな事よりも、もっと大切な事が有りました。たとえば「小柳ルミ子と天地真理、どっちがカワイイ」とか。
この再度の切り上げ、世に言う「キングストン合意」ですが、この時は「お騒がせ専門」のマスコミ学者や評論家だけでなく、真面目な経済学者の中にも、「今度の再切り上げは日本経済の致命傷になりかねない」と心配した人達もいました。
それが上げても上げても日本の輸出は減る事はなく、その後10年経って、円が240円前後になっていた時代でも、欧米には「日本の輸出で我々の産業は壊滅寸前だ。何とかしろ」と非難されていました。はい、ちょうど今の中国ですよ。
この時代に私は尺八を29800円で売っていましたから、アメリカには「100ドル尺八」と称して、2万4千円で輸出していました。「どうして安くしたんだ?」と疑問を持たれる方もいるでしょう。だって、輸出は気持ちが良いですわ。
この頃はアメリカで、当時は唯一であった「尺八の海外市場」が出来始めた時期でした。ですからサンフランシスコから私の自宅に来てくれて契約したバイヤーは、「1本100ドルなら数は任せる。1年に何十本でも引き受ける。百の単位でも構わない」という条件を提示しました。しかも送った数だけ即金決算。
この時期は、正直言って日本の客にウンザリしてもいました。だって、本当の事は何も知らないのにヘンテコ知識でクレームをつけて来る人が、今の何十倍もいましたからね。気分良く仕事出来る輸出は安くたって魅力が有りましたよ。でも、注文が多い私は、輸出に回す尺八を生産するのが大変でしたわ。そして、すぐに1985年、プラザ合意が来ました。
凄かった。あれよあれよと云う間に、1ドルは2百円を割り、瞬く間に180円を睨む展開。当然「百ドル尺八」もパーです。でも私は前記の理由で惜しくなかった。経済界も、まだ落ち着いていました。1977年にも1時期ですが、1ドル175円は有りましたからね。そして「生命線」と言われた150円も突破、「最後の防衛ライン」のはずだった140円すら軽々超えて125円くらいで一段落しました。ほんと、瞬く間だったんだから。この間中、「もう日本経済は終わりだ」の悲鳴の上がりっぱなし。60以上の人だったら皆憶えているよね。
その後に「バブル景気」が来るなんて誰も予想出来なかったもの。でも、これは日本全体での話。実際問題として個別には円高で輸出が止まり、立ち行かなくなった企業も多かったんだから・・・。
「バブル」だって元々の発生原因は円安よ。貿易摩擦を回避する為に、輸出主導の経済から内需主導型に切り替える必要が有って、その構造を支える基本に株と不動産を置いたのよ。まあ言ってみたら経済の安全弁だわな。それで今みたいに円をジャカジャカ刷ったわけだ。
「バブル」は弊害も多かったですね。崩壊した後、上の尻拭いでトンデモナイ目に遭った人は、法政大学三曲会のОB達にも多いですわ。勿論、失職した者達もいた。当然でしょうよ、私が大学生の時は「潰れる時は日本が無くなる時」とまで言われた長銀や興銀さえ潰れたんだもの、何処が潰れたって不思議はありませんや。
「ガチガチ系の金融機関」である農協系金融に勤めていた高橋照誠山だって、不良債権回収で音を挙げていましたぞ。1980年だったか農協法の「員外貸出規制」を変えて、農協組合員でなくとも住専には貸出オーケーにした、上の人達の誤判断の「つけまわし」ですよ。
でも、この「バブル崩壊」も私には何らダメージが無かった。だって、私は元々バブルでも大して良い目を見ていませんからね。バブル前から注文はイッパイ。注文が多くなったって値上げするつもりは無いから、「バブルの恩恵」は私の所を素通りして行きましたもの。
国全体で見たら、幾多の試練らしきものは常に有りました。でも皆生きています。試練に打ちのめされた人達も、境遇の変化はあっても、多くの人は生きています。
尺八で言えば、日本以外の市場が大きくなった今は、この円安は大チャンスでもあります。でも、チャンスをモノにする為には努力しなくては。変わらなければ。「今更、外国語を修得できない」とか「貿易実務なんて難しくて」とか言う人は、やらなければ良いんです。結果は自己責任。
努力しなくても変わらなくても大丈夫な時代も有ります。そのかわりに必死に努力してもダメだった場合も有るでしょう。でも上手く行くにせよ駄目になるにせよ、全て自分の事。「努力した。変わった。でも駄目だった」、それがどうしました。人の世が、「努力すれば必ず報われる」という簡単なものであるなら、皆が努力してますって。でも上手く行くことの方が多いからこそ、こうして世の中が何とか保っているのです。環境変化の時代に「変わる努力」を放棄すれば、余程の「棚ぼた」がない限り潰れます。そんなの当たり前でしょうが。尺八は、もう海外市場を持っていない人の生存を許さないと思います。今だとまだギリギリ海外市場を形成出来ます。何故なら海外先行企業もコロナで、この2年以上は足踏み状態ですからね。
この時代、尺八専業者は圧倒的大多数が収入激減、ただでさえ少ない貯金も底が見えて来たでしょう。でも、尺八専業者がいなくなったところで、世間一般は何の関心も無いです。そんな今、生きて行こうとすれば、とりあえず「円安のプラス面」を見て、そこに向けて変化の努力をしなくては無理だと思いますけどねえ。私等尺八家は「下にツケを回せない」のですよ・・・。
私が物心ついた時期から大学3年、つまり1971年夏まで1ドルは360円でした。しかも「固定レート」です。それが「円を上げない限り日本の一人勝ちで、このままだと我々はやっていけない」という諸外国、主にアメリカの圧力で円を高くする事になりました。「ニクソンショック」と言われるものが有りましてね、実態は米ドルの下落です。
この時(スミソニアン合意=1ドル308円))は概ね皆も「まあ仕方が無い」と受け止めていましたが、すぐに再切り上げが避けられない状況になりました。でも私達は大学生ですからね、もっと超然としていましたよ。そんな事よりも、もっと大切な事が有りました。たとえば「小柳ルミ子と天地真理、どっちがカワイイ」とか。
この再度の切り上げ、世に言う「キングストン合意」ですが、この時は「お騒がせ専門」のマスコミ学者や評論家だけでなく、真面目な経済学者の中にも、「今度の再切り上げは日本経済の致命傷になりかねない」と心配した人達もいました。
それが上げても上げても日本の輸出は減る事はなく、その後10年経って、円が240円前後になっていた時代でも、欧米には「日本の輸出で我々の産業は壊滅寸前だ。何とかしろ」と非難されていました。はい、ちょうど今の中国ですよ。
この時代に私は尺八を29800円で売っていましたから、アメリカには「100ドル尺八」と称して、2万4千円で輸出していました。「どうして安くしたんだ?」と疑問を持たれる方もいるでしょう。だって、輸出は気持ちが良いですわ。
この頃はアメリカで、当時は唯一であった「尺八の海外市場」が出来始めた時期でした。ですからサンフランシスコから私の自宅に来てくれて契約したバイヤーは、「1本100ドルなら数は任せる。1年に何十本でも引き受ける。百の単位でも構わない」という条件を提示しました。しかも送った数だけ即金決算。
この時期は、正直言って日本の客にウンザリしてもいました。だって、本当の事は何も知らないのにヘンテコ知識でクレームをつけて来る人が、今の何十倍もいましたからね。気分良く仕事出来る輸出は安くたって魅力が有りましたよ。でも、注文が多い私は、輸出に回す尺八を生産するのが大変でしたわ。そして、すぐに1985年、プラザ合意が来ました。
凄かった。あれよあれよと云う間に、1ドルは2百円を割り、瞬く間に180円を睨む展開。当然「百ドル尺八」もパーです。でも私は前記の理由で惜しくなかった。経済界も、まだ落ち着いていました。1977年にも1時期ですが、1ドル175円は有りましたからね。そして「生命線」と言われた150円も突破、「最後の防衛ライン」のはずだった140円すら軽々超えて125円くらいで一段落しました。ほんと、瞬く間だったんだから。この間中、「もう日本経済は終わりだ」の悲鳴の上がりっぱなし。60以上の人だったら皆憶えているよね。
その後に「バブル景気」が来るなんて誰も予想出来なかったもの。でも、これは日本全体での話。実際問題として個別には円高で輸出が止まり、立ち行かなくなった企業も多かったんだから・・・。
「バブル」だって元々の発生原因は円安よ。貿易摩擦を回避する為に、輸出主導の経済から内需主導型に切り替える必要が有って、その構造を支える基本に株と不動産を置いたのよ。まあ言ってみたら経済の安全弁だわな。それで今みたいに円をジャカジャカ刷ったわけだ。
「バブル」は弊害も多かったですね。崩壊した後、上の尻拭いでトンデモナイ目に遭った人は、法政大学三曲会のОB達にも多いですわ。勿論、失職した者達もいた。当然でしょうよ、私が大学生の時は「潰れる時は日本が無くなる時」とまで言われた長銀や興銀さえ潰れたんだもの、何処が潰れたって不思議はありませんや。
「ガチガチ系の金融機関」である農協系金融に勤めていた高橋照誠山だって、不良債権回収で音を挙げていましたぞ。1980年だったか農協法の「員外貸出規制」を変えて、農協組合員でなくとも住専には貸出オーケーにした、上の人達の誤判断の「つけまわし」ですよ。
でも、この「バブル崩壊」も私には何らダメージが無かった。だって、私は元々バブルでも大して良い目を見ていませんからね。バブル前から注文はイッパイ。注文が多くなったって値上げするつもりは無いから、「バブルの恩恵」は私の所を素通りして行きましたもの。
国全体で見たら、幾多の試練らしきものは常に有りました。でも皆生きています。試練に打ちのめされた人達も、境遇の変化はあっても、多くの人は生きています。
尺八で言えば、日本以外の市場が大きくなった今は、この円安は大チャンスでもあります。でも、チャンスをモノにする為には努力しなくては。変わらなければ。「今更、外国語を修得できない」とか「貿易実務なんて難しくて」とか言う人は、やらなければ良いんです。結果は自己責任。
努力しなくても変わらなくても大丈夫な時代も有ります。そのかわりに必死に努力してもダメだった場合も有るでしょう。でも上手く行くにせよ駄目になるにせよ、全て自分の事。「努力した。変わった。でも駄目だった」、それがどうしました。人の世が、「努力すれば必ず報われる」という簡単なものであるなら、皆が努力してますって。でも上手く行くことの方が多いからこそ、こうして世の中が何とか保っているのです。環境変化の時代に「変わる努力」を放棄すれば、余程の「棚ぼた」がない限り潰れます。そんなの当たり前でしょうが。尺八は、もう海外市場を持っていない人の生存を許さないと思います。今だとまだギリギリ海外市場を形成出来ます。何故なら海外先行企業もコロナで、この2年以上は足踏み状態ですからね。
この時代、尺八専業者は圧倒的大多数が収入激減、ただでさえ少ない貯金も底が見えて来たでしょう。でも、尺八専業者がいなくなったところで、世間一般は何の関心も無いです。そんな今、生きて行こうとすれば、とりあえず「円安のプラス面」を見て、そこに向けて変化の努力をしなくては無理だと思いますけどねえ。私等尺八家は「下にツケを回せない」のですよ・・・。
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