錯覚の素晴らしさ
- 2022/09/13
- 08:21
中学高校と野球部で過ごし、今でも野球から離れらずに、少年野球の監督をやってる友人のTに訊いた事が有ります。「球質が重いとか軽いって、よく聞くけどさ、本当にそんな事って有るの?」。有るらしいんです。現実に野球をやってて体感するそうです。でもボールはボール、質量が変わったりするわけはありません。諸外国の野球界では、この「軽い重い」は全く意味が通じないそうですけど、なにか別の表現で同様の事が言われているのだと思います。一言で言うと「思い込み」ですが、その感じは分かります。ボールの回転数が多いと打った時の反発が強く、また球速の減退も早いので、キャッチャーミットに納まった時に軽く感じるらしいんです。
同じく「アイツのボールは手元でホップする」、「あの投手の球は手元で伸びる」とかも頻繁に言われていますが、これらは物理学的には絶対有り得ません。全て錯覚、思い込みです。
ボールを投げた時のエネルギーは、それが手を離れる時より増える事は有り得ません。手を離れた瞬間から減衰する一方です。すなわち途中で加速したり、アンダースローは別として浮き上がったりはしません。人間の力で投げた球なら初速200キロ以下ですから、打者までの距離(イロイロ有るが18メートル強)では、程度の差こそ有れ必ず沈みます。
投げたボールは通常回転して打者に届きます。その上向き回転数が多いと「ベルヌーイの定理」で沈みが遅れ、打者が脳内で予測した軌道より上に行くと「手元でホップした」と錯覚するわけで、実際には沈んでいます。同様に脳内予測より球速が減衰しなければ、「手元で伸びた」と感じるわけです。
余談ですが、野球って錯覚を利用して「相手や審判を騙すゲーム」でもあって、精密なロボットが審判したら、「判定ミスの無いツマラナイゲームになる」そうですよ。優れた投手や捕手は、対戦相手や審判の個々の脳のクセを記憶しているそうですね。
この錯覚とか「思い込み」が、もし無かったら、人生とはかなり味気無いものになりますな。かつての白黒映画とか今でも漫画とか、頼みもしないのに脳が色を補ってくれています。名画だって、いくら遠近法を使ったって2次元は2次元ですよ。つくずく感心するのは、人間の錯覚を利用した「騙し絵」で、分かっていても「不思議空間」に入り込みます。こういう「騙される脳」の存在こそ文化が成立する絶対の基盤だと思います。
私が二代酒井竹保先生に習った「鹿の遠音」ですが、聞く機会の多い琴古流の「鹿の遠音」とかなり違います。それでも「山彦返し」とか「呼び返し」とか共通する部分も有るわけで、比べると興味深いですよ。師匠は嫌がるでしょうが、例えば虚空とか三谷とか異なる流派で習うと、そのキモである共通する部分(こここそ原型と考えられる)が浮き上がってきます。それが言葉に出来ないほど面白い。
「ここが鹿が走って来て、再び遠ざかる部分です。さあ、どう吹きますか?」。酒井先生からの問いかけです。私も大橋鯛山です。伊達に「天才」の評判を得ているわけでは無い。だから自信を持って答えました。「分かりません」。
「いいですか、遠くの音は小さく聞こえます。だから極く小さい音から少しずつ大きくして行き、そしてまた徐々に小さくしていって遠ざかる感じを出します。この速さの推移も工夫してください。一辺倒の速さでは駄目ですよ。音の大きさ、速さ、簡単に出来ると思ったら大間違いです。」。
島原帆山先生には、月の違い、山にボ~と上ぼる「峰の月」の月と、「寒月」の冬の厳しい月との吹き分け方を教わりましたが、なるほど音でも視覚を現せるんですね。知ってはいても「目から鱗」です。エッ、「どういうことだ?」ですかい。ピカピカ、ギラギラ、お星さまキラキラ、風はそよそよ、春はポカポカ。「ピカピカ」と音を出して光る金属音なんて無いないけど、脳内ではチャンと音が鳴っているでしょう。
そして青木鈴慕先生、この人は自分の中に「青木鈴慕の尺八」が有り、そこから近いか遠いかが評価の基準ですから、吹き方は教えても、「よって立つ有り様」の解説は滅多にしません。坂田誠山先生は「音程重視で、後は音楽として余程にヘンテコ」でなければ、コマゴマと指導はなさらない方でした。それでも実際にやって見せる青木鈴慕の大甲、ありゃ「芸の極致」でしょう。5孔では構造的に出ないツの大甲を、菅尻も塞がず出してしまうんです。勿論、錯覚を利用した旋律処理ですわ。でも、誰も違和感を覚えないでしょう。坂田誠山って上行音程と下降音程を古典でも50年も前に吹き分けてたんですよ。箏は無理だけど三絃だと名人は使い分けますね。理論ではなく心地良いのでしょう。
これだから伝統文化はやめられない。こういうのの「何故か」を追求していると時間を忘れます。
先に言って置きますが、良い悪いじゃありませんよ。伝統楽器である尺八で現在の音楽、例えて言うと器楽的なモノ、あるいはリズム、メロディを聞かせるタイプの音楽が盛んにやられる時代になりました。、こういった音楽って直接的に感覚に訴えて来るわけで、古典みたいに翻訳の必要がありません。でも脳の錯覚すら取り入れた古典における先人の芸って凄いですね。聞いてる方が分からなければ、それまでですが、知ったら止められねえよ。
古典って、言葉だけで人の脳を別の意味で騙して、ガラクタを値打ちが有る様に錯覚させるだけのモノじゃないってこってす・・・。
同じく「アイツのボールは手元でホップする」、「あの投手の球は手元で伸びる」とかも頻繁に言われていますが、これらは物理学的には絶対有り得ません。全て錯覚、思い込みです。
ボールを投げた時のエネルギーは、それが手を離れる時より増える事は有り得ません。手を離れた瞬間から減衰する一方です。すなわち途中で加速したり、アンダースローは別として浮き上がったりはしません。人間の力で投げた球なら初速200キロ以下ですから、打者までの距離(イロイロ有るが18メートル強)では、程度の差こそ有れ必ず沈みます。
投げたボールは通常回転して打者に届きます。その上向き回転数が多いと「ベルヌーイの定理」で沈みが遅れ、打者が脳内で予測した軌道より上に行くと「手元でホップした」と錯覚するわけで、実際には沈んでいます。同様に脳内予測より球速が減衰しなければ、「手元で伸びた」と感じるわけです。
余談ですが、野球って錯覚を利用して「相手や審判を騙すゲーム」でもあって、精密なロボットが審判したら、「判定ミスの無いツマラナイゲームになる」そうですよ。優れた投手や捕手は、対戦相手や審判の個々の脳のクセを記憶しているそうですね。
この錯覚とか「思い込み」が、もし無かったら、人生とはかなり味気無いものになりますな。かつての白黒映画とか今でも漫画とか、頼みもしないのに脳が色を補ってくれています。名画だって、いくら遠近法を使ったって2次元は2次元ですよ。つくずく感心するのは、人間の錯覚を利用した「騙し絵」で、分かっていても「不思議空間」に入り込みます。こういう「騙される脳」の存在こそ文化が成立する絶対の基盤だと思います。
私が二代酒井竹保先生に習った「鹿の遠音」ですが、聞く機会の多い琴古流の「鹿の遠音」とかなり違います。それでも「山彦返し」とか「呼び返し」とか共通する部分も有るわけで、比べると興味深いですよ。師匠は嫌がるでしょうが、例えば虚空とか三谷とか異なる流派で習うと、そのキモである共通する部分(こここそ原型と考えられる)が浮き上がってきます。それが言葉に出来ないほど面白い。
「ここが鹿が走って来て、再び遠ざかる部分です。さあ、どう吹きますか?」。酒井先生からの問いかけです。私も大橋鯛山です。伊達に「天才」の評判を得ているわけでは無い。だから自信を持って答えました。「分かりません」。
「いいですか、遠くの音は小さく聞こえます。だから極く小さい音から少しずつ大きくして行き、そしてまた徐々に小さくしていって遠ざかる感じを出します。この速さの推移も工夫してください。一辺倒の速さでは駄目ですよ。音の大きさ、速さ、簡単に出来ると思ったら大間違いです。」。
島原帆山先生には、月の違い、山にボ~と上ぼる「峰の月」の月と、「寒月」の冬の厳しい月との吹き分け方を教わりましたが、なるほど音でも視覚を現せるんですね。知ってはいても「目から鱗」です。エッ、「どういうことだ?」ですかい。ピカピカ、ギラギラ、お星さまキラキラ、風はそよそよ、春はポカポカ。「ピカピカ」と音を出して光る金属音なんて無いないけど、脳内ではチャンと音が鳴っているでしょう。
そして青木鈴慕先生、この人は自分の中に「青木鈴慕の尺八」が有り、そこから近いか遠いかが評価の基準ですから、吹き方は教えても、「よって立つ有り様」の解説は滅多にしません。坂田誠山先生は「音程重視で、後は音楽として余程にヘンテコ」でなければ、コマゴマと指導はなさらない方でした。それでも実際にやって見せる青木鈴慕の大甲、ありゃ「芸の極致」でしょう。5孔では構造的に出ないツの大甲を、菅尻も塞がず出してしまうんです。勿論、錯覚を利用した旋律処理ですわ。でも、誰も違和感を覚えないでしょう。坂田誠山って上行音程と下降音程を古典でも50年も前に吹き分けてたんですよ。箏は無理だけど三絃だと名人は使い分けますね。理論ではなく心地良いのでしょう。
これだから伝統文化はやめられない。こういうのの「何故か」を追求していると時間を忘れます。
先に言って置きますが、良い悪いじゃありませんよ。伝統楽器である尺八で現在の音楽、例えて言うと器楽的なモノ、あるいはリズム、メロディを聞かせるタイプの音楽が盛んにやられる時代になりました。、こういった音楽って直接的に感覚に訴えて来るわけで、古典みたいに翻訳の必要がありません。でも脳の錯覚すら取り入れた古典における先人の芸って凄いですね。聞いてる方が分からなければ、それまでですが、知ったら止められねえよ。
古典って、言葉だけで人の脳を別の意味で騙して、ガラクタを値打ちが有る様に錯覚させるだけのモノじゃないってこってす・・・。
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