戒律
- 2023/01/08
- 12:39


代々木上原に東京ジャーニーというイスラム寺院(礼拝所)が有ります。私の様にイスラム教徒でない者でも、行けば歓迎してくれます。私は誰にでも何処の国の人にでも、訊かれれば「神や仏の実在を信じていない。存在ならば個人の心の中でしょう」と答えます。「外国人相手には無宗教宣言は駄目というのが常識だ」という事になっているみたいですね。でも、嘘を言ったって仕方無いでしょう。私は信じていないけど、「超能力」を持ち出すオカルト教団とか「人を騙して金儲けする目的」が明らかなビジネス宗教でも無ければ、他人の宗教を貶めるつもりも有りません。
様々な職業の人達がいる尺八商売の有難さ、私の親しい人達には、神道、仏教はもとより新旧キリスト教の聖職者も多いのです。今回の訪問でも、礼拝に来ていたブルキナファッソやニジェール、コートジボワールとか日本にいたらチョット会えない人達と会話しました。別に相手が何国人でも、無神論だと言ってトラブった事など無いですがねえ・・・。
イスラム教、この世界人口の3割弱を占める広域宗教は、また私を含めた日本人がほとんど知識を持たない宗教でしょう。私もコーランは持っています。立派な箱に入ったものをエジプトで土産に買いました。でも、アラビア語ですから頁を開いた事もありません。イスラム教徒は、日本にも20万人位いるらしいですが、それだって大半は外国人でしょうよ。何しろ私のこれまでの72年の人生で、会話した日本人イスラムって1人しかおりません。大学の時に一寸木(チョッキ)俊昭という教授がいまして、その方しか知りません。皆さんも日本で周囲に日本人イスラムって誰かいますか?。

私は宗教家と話すのは好きですし、イスラムも興味が有ります。東京ジャーニー(入場無料)に行くと、写真の男性が親切にガイドしてくれますよ。彼は1949年生まれで、早稲田大学の冒険部に入り、漁船(当時の航空券は高かったから)に乗ってスーダンへ行き、そのままアフリカ生活をするうちに、イスラムへ入信しました。
イスラム教は信者の大半がアジア人、それもインド以東におりますが、西アジアやアフリカにもおります。ただ、我々東アジアの中国文化圏では信者の獲得は難しいですね。だって日本、コりア、ベトナムを含めた中国文化圏の人間て戒律が大嫌いですもの。豚肉食の禁止のただ1点だけで、中国人は相手にしませんよ。中国であっても中国文化圏ではないウイグル民族や寧夏のイスラム人達の為の食堂(清真料理)は中国にも有って、私も上海のウイグル人街によく行きましたが、毎日は食べたくないですねえ。でも、珠にしろ行ったのは、「酒はダメ」なんて野暮は言わないし、どの店もエキゾチックなウイグル娘が給仕してくれたからです。
「酒の禁止」も、世界最大のイスラム国家インドネシアやマレーシア、エジプトではオオッピラに飲めましたし、「世俗国家」のトルコは当然ですが、かなり厳格なパキスタン(ホテルの部屋はオーケー)でも「酒を持ってたら売ってくれ」と何度を言われました。アブダビやドバイの航空機でも機内はオーケーです。イスラムは平和的かつ寛大な宗教で、非イスラムに対して信仰の強制はしないので当たり前か。
その前に20世紀初めまではイスラムの最高聖職者はトルコ皇帝でしたよね。でも、そのオスマントルコ皇帝の約半数がアル中だった事なんぞ、天下衆知ですぜ。
キリスト教やイスラムがユダヤ教を源流とする事は、すでに日本人にも知られています。キリスト教が地中海民族やゲルマン人が大好きな酒と豚肉を禁止したままだったら、決して今日のキリスト教の中心地であるヨーロッパ世界には広がらなかったと思います。普及の為に「戒律の自由化」を断行したパオロ達は現実的でしたね。
でもイスラムは同じ一神教の啓示宗教ですが、キリスト教と異なり、信仰を行動で示さなけばならない宗教なので、「神の最終啓示で変更不可」であるコーランが定めた「6信5行」の戒律を守る人が多いですね。
キリスト教世界では、17世紀のスピノザ以来、聖書を批判的に読み、今日ではマジに「神の言葉」だと信じている人は少数派だと思います。これはイスラムでも本当は同様ではないのでしょうか?。コーランは全て神の言葉だと信じている人もいるでしょうが、大半の人は違うと思いますがね。ただ宗教重視の人達ですから、「戒律?、何のこっちゃ」とまではいかない様です。
豚は「汚れている」という長い刷り込みで、気持ち悪いから食べないのだと思います。これにも温度差が有って、豚肉を食べる人達もいます。でもパキスタンから西は、そもそも養豚所が無いですから、ハムなどの加工品でないと入手出来ないですね。その点で酒は、その気になれば容易に入手出来ます。ただ気になるのは「他人の目」でしょうかね。ルース・ベネディクトの言う「罪の文化、恥の文化」はトレンドであって、きっかり色分け出来るわけがありません。「建前と本音」の民族や個人による温度差。それが今の人間社会なんだと思います。
尺八の流派は御存知の様に「戒律」を持っています。でも、私が尺八を始めた52年前でも、すでに多くの人が「何で他流の曲や歌謡曲を吹いたらいけないんだよ」と思っていました。しかし当時は私的な会話では本音を言っても、周りに人がいると口を噤んでいました。私等学生は気楽ですから、平気で「戒律」を無視していました。
今はもうアレコレ言う人の方が少ないですよ。だって、もう誰も「戒律」は信じていない。後は「他人の目」です。今でも多くの人が「歌口は都山(琴古)にして下さい」とか言います。いくら「違いなんて無いですよ。たとえば同じ種類の自動車を買うとして、色を赤にするか白にするかの違いです」と言っても、「周りが皆都山(琴古)を使っているので、私だけ別というのも・・・」と大半の人達が言います。ここが克服されるのが5年先か10年先か?。ともかく流の「同調圧力」を脱した時に、日本の尺八はまた一段上のステージに上がります。
キリスト教の聖書も近世になって各国語に翻訳されました。コーランも少しずつ各国語に翻訳され始めました。尺八だって、流派ごとに譜面が違うなんて何時まで続く事か。独自性が有ったって良いのですよ、禁止さえ無かったら。簡単な努力で済むのに、流派ごとの譜面を読めなかった、これまでの尺八吹きにも問題が有りますけどね・・・。
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