開拓者
- 2023/01/18
- 09:11
私の青年期、つまり昭和40年代までは、外国人と接する機会は、ほとんど有りませんでした。在日のコリアンや中国、台湾籍の人は別として外国人って、まだ日本には、ほとんどいなかったのです。私は東京生まれの東京育ちですが、大学入学までに会話した外国人て、プロレスラーを除くと手の指で足りるくらいです。日本の中では外国人の多い東京でも、こんなものだったのです。
多くの日本人が初めて世界と直に触れ合った、それは1970年の大阪万博でしょう。私も期間の半年間に前後して3回行きました。入場まで何時間もかかるソ連館とアメリカ館は始めからパス。その分、他の空いているパビリオンを回りました。世界77の国が参加していましたので、何処も興味深くて時間を忘れました。
2005年の愛知万博は121か国の参加と規模は大きかったですが、初めての大阪万博みたいな興奮は無かったです。35年の歳月は日本も世界も変えてしまいました。私は「良い方に」だと思っています。
同じく1973年までの私の大学時代には、尺八関係で外国人と出会った記憶はありません。75年頃ライリー・リーとかトム・ディーバーとか、ようやく外国人が尺八界にも現れ出しましたが、まだ周りの日本人は「変わったガイジンさん」という感じで見ていました。
1970年代後半から航空券が安くなり、年毎に他国に行くのが簡単になりました。1975年からの10年間が、外国人尺八家がワッと増えたという感じでしたな。
1980年に、米人尺八プロのロニー・セルディン、三絃のヘンリー・バーネットと会い、2日2晩一緒に過ごしました。途中から、そこへ『TAKE NО ⅯĪⅭHĪ』という尺八機関誌をアメリカで出しているベリー・ワイズが合流しました。ワイズに訊くと「アメリカで尺八を吹いている会員(機関紙購読者)は百人」との事でした。驚くほどの数でしたが、でも、当時はこれだけ。アメリカ以外には外国人尺八家は存在しませんでした。
それから40年、今では尺八関連の需要規模という点では、むしろ外国の方が多いのではないかと思います。外国人尺八家のオールトータルが、少なく見積もって1万人だとしても、2万人いる日本の尺八家は、90パーセント近くが60以上の老人であり、しかも、その3分の2が後期高齢者ですから、もう新規の需要を生み出しません。もうはっきりした「行きどまり」です。
コロナの3年間、製管師や尺八演奏家から、「どうしたら良いんでしょう?」と、かなり相談されました。今までも時おり相談されましたが、邦楽業者の廃業が相次いだ、この3年間は特に多いです。
これまでの環境に甘えていたんですよね。でも、そのオカゲで楽を出来た既存需要だって、先人達が努力して開いたものなんですわ。ですから、また新たに努力して市場を開拓しなくては生活出来ない時代が、百年ぶりに回って来ただけなんですよ。現在、尺八界を大きく変容させている外国尺八市場だって、この40年間の外国人開拓者の努力の賜物なんです。
前は相談してきた人が製管師ならば、「価格を下げろ」の一言でした。今は価格を下げても、それをカバーする注文増まで生活費が保たないでしょう。新しい即効性の有る需要を自分自身で開拓するしかありません。今は、海外市場を持たない製管師が正常に営業出来ているなんて信じられないのですが。まだ何とかなっていても、国内需要だけでは時間の問題で行き詰まります。演奏家も同じ。
今、可能性の有る所は三つです。
①外国 ②シルバー ③ テレワーク(ネット教授)
①に関連して、英語か中国語を習得する。前は尺八を習いたい外国人は日本語を学びました。今は、こちらから出かけて行かないと無理です。特に演奏家は会話力が求められますね。
② 公民館講習(カルチャー講座)の開拓です。ほとんどのプロ尺八家は実務無能力が無いので、初めは辞を低くして申込み書の書き方とかを習う。一般に邦楽の専業者は、サラリーマンが会社で叩き込まれる事務能力を軽視していますよ。後は幅広く回る。「犬も歩けば棒に当たる」です。
③、ネット教習。言うまでも無くスカイプの活用で、これは①と強くリンクしています。ここも頼みは外国人。
「営業とか外交は苦手で」とか言う人なら答えは簡単。諦めれば良い。
尺八のプロになるには、前は18才で尺八吹奏力が身に付いている芸大出身者の方が有利だと思っていましたが、今みたいな、尺八で生きて行くにも総合力が重要な時代になると、一般大学出身者の方が、かえって有利かも知れません。数有る道の中から尺八を仕事に選んだ一般大学の出身者に比べて、芸大(本科)卒は「卒業後は尺八が仕事」が既定路線ですから、「潰しが効かない」だけに気の毒ですね。とにかく今は出来る事を全部やるしかない。待ってたって仕事は来ない。先人達がやった開拓の苦労をしない人には道は有りません。
よく言われる「芸大に入学した尺八科の学生に、教授が最初に教えるべき最重要科目。それは生活保護の受け方」と言うのも、あながち冗談とは言えなくなりましたぜ・・・。
多くの日本人が初めて世界と直に触れ合った、それは1970年の大阪万博でしょう。私も期間の半年間に前後して3回行きました。入場まで何時間もかかるソ連館とアメリカ館は始めからパス。その分、他の空いているパビリオンを回りました。世界77の国が参加していましたので、何処も興味深くて時間を忘れました。
2005年の愛知万博は121か国の参加と規模は大きかったですが、初めての大阪万博みたいな興奮は無かったです。35年の歳月は日本も世界も変えてしまいました。私は「良い方に」だと思っています。
同じく1973年までの私の大学時代には、尺八関係で外国人と出会った記憶はありません。75年頃ライリー・リーとかトム・ディーバーとか、ようやく外国人が尺八界にも現れ出しましたが、まだ周りの日本人は「変わったガイジンさん」という感じで見ていました。
1970年代後半から航空券が安くなり、年毎に他国に行くのが簡単になりました。1975年からの10年間が、外国人尺八家がワッと増えたという感じでしたな。
1980年に、米人尺八プロのロニー・セルディン、三絃のヘンリー・バーネットと会い、2日2晩一緒に過ごしました。途中から、そこへ『TAKE NО ⅯĪⅭHĪ』という尺八機関誌をアメリカで出しているベリー・ワイズが合流しました。ワイズに訊くと「アメリカで尺八を吹いている会員(機関紙購読者)は百人」との事でした。驚くほどの数でしたが、でも、当時はこれだけ。アメリカ以外には外国人尺八家は存在しませんでした。
それから40年、今では尺八関連の需要規模という点では、むしろ外国の方が多いのではないかと思います。外国人尺八家のオールトータルが、少なく見積もって1万人だとしても、2万人いる日本の尺八家は、90パーセント近くが60以上の老人であり、しかも、その3分の2が後期高齢者ですから、もう新規の需要を生み出しません。もうはっきりした「行きどまり」です。
コロナの3年間、製管師や尺八演奏家から、「どうしたら良いんでしょう?」と、かなり相談されました。今までも時おり相談されましたが、邦楽業者の廃業が相次いだ、この3年間は特に多いです。
これまでの環境に甘えていたんですよね。でも、そのオカゲで楽を出来た既存需要だって、先人達が努力して開いたものなんですわ。ですから、また新たに努力して市場を開拓しなくては生活出来ない時代が、百年ぶりに回って来ただけなんですよ。現在、尺八界を大きく変容させている外国尺八市場だって、この40年間の外国人開拓者の努力の賜物なんです。
前は相談してきた人が製管師ならば、「価格を下げろ」の一言でした。今は価格を下げても、それをカバーする注文増まで生活費が保たないでしょう。新しい即効性の有る需要を自分自身で開拓するしかありません。今は、海外市場を持たない製管師が正常に営業出来ているなんて信じられないのですが。まだ何とかなっていても、国内需要だけでは時間の問題で行き詰まります。演奏家も同じ。
今、可能性の有る所は三つです。
①外国 ②シルバー ③ テレワーク(ネット教授)
①に関連して、英語か中国語を習得する。前は尺八を習いたい外国人は日本語を学びました。今は、こちらから出かけて行かないと無理です。特に演奏家は会話力が求められますね。
② 公民館講習(カルチャー講座)の開拓です。ほとんどのプロ尺八家は実務無能力が無いので、初めは辞を低くして申込み書の書き方とかを習う。一般に邦楽の専業者は、サラリーマンが会社で叩き込まれる事務能力を軽視していますよ。後は幅広く回る。「犬も歩けば棒に当たる」です。
③、ネット教習。言うまでも無くスカイプの活用で、これは①と強くリンクしています。ここも頼みは外国人。
「営業とか外交は苦手で」とか言う人なら答えは簡単。諦めれば良い。
尺八のプロになるには、前は18才で尺八吹奏力が身に付いている芸大出身者の方が有利だと思っていましたが、今みたいな、尺八で生きて行くにも総合力が重要な時代になると、一般大学出身者の方が、かえって有利かも知れません。数有る道の中から尺八を仕事に選んだ一般大学の出身者に比べて、芸大(本科)卒は「卒業後は尺八が仕事」が既定路線ですから、「潰しが効かない」だけに気の毒ですね。とにかく今は出来る事を全部やるしかない。待ってたって仕事は来ない。先人達がやった開拓の苦労をしない人には道は有りません。
よく言われる「芸大に入学した尺八科の学生に、教授が最初に教えるべき最重要科目。それは生活保護の受け方」と言うのも、あながち冗談とは言えなくなりましたぜ・・・。
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