頼り
- 2023/03/03
- 09:22
現在、尺八界は先の見えない真っ暗闇の中にいます。ただでさえ尺八需要が急激に減衰していたのに、さらに追い打ちをかけるコロナですからね。誰にも確信出来る将来像なんて見えていません。私達尺八業者は、この3年間本当の逆境を経験しました。感染者数も死亡者数も減ってなくても、もうテレビも「恐怖を煽る行為は流石にヤバイ」と沈黙しています。コロナは、もうすでに人が気にしない時期に入りましたが、まだ尺八の夜は明けません。この先どうなってしまうのか?
前にブログで、「明日世界が終わっても、私は今日木を植える」というマルティン・ルターの有名な言葉について触れ、「これは日本人だとピントのズレた解釈をしている」と書きまして、「どういう事?」と訊かれたので、少し言います。
敬虔なキリスト教徒であるルターには、「世界の将来像」が確信的に見えていたんです。キリスト教では「世界と終わり」を明確に説いています。何時とは分かりませんが、ともかく、神の定めた時に、「世界が終わり、死者が全て甦り、『最後の審判』を受ける。そして天国に行く人達と、そのまま『永遠の死』を迎える者達に分けられる」。ここまではカソリック(旧教)もプロテスタント(新教)も同じ。地獄、煉獄などは仏教と同じく、商売上の便宜で後から作っただけです。
プロテスタントは、「神は人間の意思にも行いにも左右されず、天国に行ける者は、現世の行動と関係無く、あらかじめ決まっている」と説きます。でも「神に天国を約束されている人間が、現世で自堕落な悪徳生活をしているはずがない。だから刻苦勉励に励む」。これがマックス・ウェーバーの言う、プロテスタントの倫理で、資本主義の精神(スピリット・オブ・キャピタリズム」を生みました。
「プロテスタントの神」は人間を暖かく抱擁などしない。疑問の人は旅行先のホテルででも、備えつけの『旧約聖書』の「ヨブ記」を読むと、私がデマカセを言ってるんではないと御理解いただけます。これが5世紀のアウグスチヌスはじめ、初期のキリスト教の解釈であり、長い中世の「善行を積めば救われる」のカソリックのアンチテーゼとして、16世紀に新めて復活してきたわけです。
勿論、今のキリスト教徒は大方の人が『聖書』は人間が書いたと思ってますよ。本気で「最後の審判」を信じていたら、キリスト教世界の中でも「特殊な人」と思われるでしょう。でもルターは「超越者が書いた」とマジで信じていたんですわな。だから、「世界の終わりイコール神の国の始まり」であって、我々がイメージする「暗い終末」ではないのです。「救われる人間の行動として、その時まで励む」という事ですわ。
日本人の様な「神無き民」は、こういう時に何を「心の支え」にしてきたのでしょうかね。多くの欧米人が「神は実体としては存在しない。だが神を信じる事は大切」という具合に、理性と信仰を両立させている様です。ただ私達は信仰というモノを持っていないので、後天的にキリスト教徒になった人を含めて、生まれた時から周囲全部がキリスト教徒とかイスラムとか、そういう環境の中で育った民族からは、何とも理解しがたい様です。もっとも御互い様だけどね・・・。
では何を頼りに?。私は「明日は分からないから、今日も木を植える」です。それ以外にどうするスベも無いからです。さらに言えば「尺八自体の魅力の確信」です。
この百年、日本人は様々な試練と向き合ってきました。特に戦前は酷かった。1923年の関東大震災に続いて6年後には世界大恐慌、そして息つく間も無く敗戦。僅か20年くらいの間にウルトラ級の災厄が3つも来たのですわ。でも、前を向いて生きてきました。尺八界の諸先輩達も同様です。高度経済成長の前までは、「御稽古尺八」の盛んだった戦前を含めて、尺八家は経済的に恵まれなかった。青木鈴慕も山口四郎も、神如道も横山蘭畝だって、息子には「生活が大変だから尺八を職業にするな」と言っていたそうです。
今の尺八業者は良い時しか知りませんよ。「繁栄の名残りの時代」とは言え、新たに時代がリセットされた事が顕在化してから、まだ15年くらいです。40年近く楽な業界でした。
このコロナの先の尺八界なんて誰にも分かりません。戦前のヒドイ試練の後には輝かしい繁栄の時代が開けましたが、今度もそうなる保証はありません。今の尺八業界は皆が大きな不安を抱えています。「良い時代」だった、これまでだって、尺八のプロなら誰でも仕事が入らなくて不安にかられた経験が有るものです。2週間くらい、まるで仕事が入らないと、「もう、このまま仕事が来ないんじゃないか」とネガティブな気持ちになります。でも、尺八界そのものが健在だった時は、「そんなはずがない。単なる波だ」と思えます。だけど、今は尺八界そのものが全くダメになったわけですからね。
私の歳ならともかく、尺八の未来を生きる若い人達。覚悟を決める時です。尺八を取り巻く環境が良くて、人脈を構築できれば、凡人でも専業化できた時代は終わったのです。これからは尺八専業で生きて行こうとしたら、人並外れた才能が必要でしょう。洋楽器の演奏家を見たら納得がいくでしょう。
でも、何も「尺八プロ」とは「生活手段として尺八しかやっていない者」を意味しません。日本の「専業でないとプロとは言えない」。そういうのは世界的に見た場合は、むしろ独特の感覚です。欧米や中国のプロ音楽家を見れば分ります。尺八のプロは、こういう混迷の時代には、もっと柔軟性を持って、選択の巾を広げたら良いのではないでしょうか。
尺八の未来が明るく開けるにせよ、それまで生き残れなくては話にならないと思います。
前にブログで、「明日世界が終わっても、私は今日木を植える」というマルティン・ルターの有名な言葉について触れ、「これは日本人だとピントのズレた解釈をしている」と書きまして、「どういう事?」と訊かれたので、少し言います。
敬虔なキリスト教徒であるルターには、「世界の将来像」が確信的に見えていたんです。キリスト教では「世界と終わり」を明確に説いています。何時とは分かりませんが、ともかく、神の定めた時に、「世界が終わり、死者が全て甦り、『最後の審判』を受ける。そして天国に行く人達と、そのまま『永遠の死』を迎える者達に分けられる」。ここまではカソリック(旧教)もプロテスタント(新教)も同じ。地獄、煉獄などは仏教と同じく、商売上の便宜で後から作っただけです。
プロテスタントは、「神は人間の意思にも行いにも左右されず、天国に行ける者は、現世の行動と関係無く、あらかじめ決まっている」と説きます。でも「神に天国を約束されている人間が、現世で自堕落な悪徳生活をしているはずがない。だから刻苦勉励に励む」。これがマックス・ウェーバーの言う、プロテスタントの倫理で、資本主義の精神(スピリット・オブ・キャピタリズム」を生みました。
「プロテスタントの神」は人間を暖かく抱擁などしない。疑問の人は旅行先のホテルででも、備えつけの『旧約聖書』の「ヨブ記」を読むと、私がデマカセを言ってるんではないと御理解いただけます。これが5世紀のアウグスチヌスはじめ、初期のキリスト教の解釈であり、長い中世の「善行を積めば救われる」のカソリックのアンチテーゼとして、16世紀に新めて復活してきたわけです。
勿論、今のキリスト教徒は大方の人が『聖書』は人間が書いたと思ってますよ。本気で「最後の審判」を信じていたら、キリスト教世界の中でも「特殊な人」と思われるでしょう。でもルターは「超越者が書いた」とマジで信じていたんですわな。だから、「世界の終わりイコール神の国の始まり」であって、我々がイメージする「暗い終末」ではないのです。「救われる人間の行動として、その時まで励む」という事ですわ。
日本人の様な「神無き民」は、こういう時に何を「心の支え」にしてきたのでしょうかね。多くの欧米人が「神は実体としては存在しない。だが神を信じる事は大切」という具合に、理性と信仰を両立させている様です。ただ私達は信仰というモノを持っていないので、後天的にキリスト教徒になった人を含めて、生まれた時から周囲全部がキリスト教徒とかイスラムとか、そういう環境の中で育った民族からは、何とも理解しがたい様です。もっとも御互い様だけどね・・・。
では何を頼りに?。私は「明日は分からないから、今日も木を植える」です。それ以外にどうするスベも無いからです。さらに言えば「尺八自体の魅力の確信」です。
この百年、日本人は様々な試練と向き合ってきました。特に戦前は酷かった。1923年の関東大震災に続いて6年後には世界大恐慌、そして息つく間も無く敗戦。僅か20年くらいの間にウルトラ級の災厄が3つも来たのですわ。でも、前を向いて生きてきました。尺八界の諸先輩達も同様です。高度経済成長の前までは、「御稽古尺八」の盛んだった戦前を含めて、尺八家は経済的に恵まれなかった。青木鈴慕も山口四郎も、神如道も横山蘭畝だって、息子には「生活が大変だから尺八を職業にするな」と言っていたそうです。
今の尺八業者は良い時しか知りませんよ。「繁栄の名残りの時代」とは言え、新たに時代がリセットされた事が顕在化してから、まだ15年くらいです。40年近く楽な業界でした。
このコロナの先の尺八界なんて誰にも分かりません。戦前のヒドイ試練の後には輝かしい繁栄の時代が開けましたが、今度もそうなる保証はありません。今の尺八業界は皆が大きな不安を抱えています。「良い時代」だった、これまでだって、尺八のプロなら誰でも仕事が入らなくて不安にかられた経験が有るものです。2週間くらい、まるで仕事が入らないと、「もう、このまま仕事が来ないんじゃないか」とネガティブな気持ちになります。でも、尺八界そのものが健在だった時は、「そんなはずがない。単なる波だ」と思えます。だけど、今は尺八界そのものが全くダメになったわけですからね。
私の歳ならともかく、尺八の未来を生きる若い人達。覚悟を決める時です。尺八を取り巻く環境が良くて、人脈を構築できれば、凡人でも専業化できた時代は終わったのです。これからは尺八専業で生きて行こうとしたら、人並外れた才能が必要でしょう。洋楽器の演奏家を見たら納得がいくでしょう。
でも、何も「尺八プロ」とは「生活手段として尺八しかやっていない者」を意味しません。日本の「専業でないとプロとは言えない」。そういうのは世界的に見た場合は、むしろ独特の感覚です。欧米や中国のプロ音楽家を見れば分ります。尺八のプロは、こういう混迷の時代には、もっと柔軟性を持って、選択の巾を広げたら良いのではないでしょうか。
尺八の未来が明るく開けるにせよ、それまで生き残れなくては話にならないと思います。
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