秘密の扉
- 2023/08/26
- 16:49
控室って何かワクワクしませんか?。ドアを開ければ、そこに有名人がいる。スポーツ選手でも芸能人でも、とにかくテレビとか雑誌でしか見た事の無い人に会えるんです。
今は厳重にガードされていて、単なるファンが仮にも控室の扉の前に立てたとしたら、余程に小さな催しで、しかも相手が「張り出し有名人」の場合でしょう。ところが昔はそうではなかった。勝手にスターの控室に入りこみ、話をしたりサインとかを貰う事も可能でした。勿論、中には怒られて摘み出された人もいたでしょうよ。でも、それをキッカケにしてスターと親しくなった人もいたんです。何も持たない人が度胸一つを財産にして勝負出来た時代が有りました。
いつくらいまで?。そう昭和50年、つまり1970年代の半ばまでは、そうだったと思います。現に私の知り合いで、同様の行為に及んだ者が何人もいましたもの。それをキッカケにして、その道に進み、いつの間にか「控室を抉じ開けた世界」で大御所になっている人だっています。
当時、公会堂で歌謡ショーとか有ったとしますわな。楽屋通用口の前には、いつもファン達が屯していましたが、鍵がかかっていて、決して一般人は入れません。ところが別の出入口から簡単に控室まで入れてしまうのです。芸能人や関係者達用のスペースまで行ってしまえば、余程に粗末な格好でウロウロしてない限り、「ドッカの関係者だろう」と思って誰も怪しみませんでした。だって、「関係者以外は入れない事になっている場所」にいるんですもの。
1例を挙げると、よく歌謡曲のテレビ収録に使われたS公会堂ですが、地下の控室の集まるエリアから階段を上って、舞台のスソに出ると、関係者の為に1階の喫茶店の奥に通じる「秘密のドア」が有りました。別に見張りなんかいないので、誰でも逆を通って歌手達がいる場所まで行けましたよ。どの会場にも同様のノウハウが存在しました。無いと使用する側にとっても逆に不便なのです。今みたいに情報がネットで忽ち拡散される時代では無いので、諸事がノンビリしていましたね。
どうして私が知っているのか?。もう時効だから言ってしまいましょう。昭和50年に消防法が改正される前は、会場の定員が何人であれ、どんだけの客を入れても構わなかったのです。ですから興行は前時代のままの「ドンブリ勘定」でした。特にプロレスの場合、事務や営業を巻き込んだ不正な裏金作りが横行していました。つまり経費の水増しは当たり前。招待券を売ったり、あるいは会場の椅子設置(セットバック)で帳簿上は存在しない席を1周作ったりして、ポケットマネーにするのです。当時はチケットに税務署の確認印が必要でしたが、有るはずがないチケットだもの検印も受けませんや。。知ってます?、満員札止めになると、現金でチケットが無い客を入れてたんですよ。その金の行き先は知りませんがね。ですからレスラーは事務方に対して、かなり根深い不信感を抱えていました。
私の場合は、ボスだったマシオ駒の疑問が切っ掛けでした。「大橋、東京体育館(キャパ9千。通路や階段まで使えば1万1千)の使用料って幾らだ?」。「興行だと1日36万円(昭和50年当時)です」、「そうか、蔵前国技館(キャパ1万だが詰め込み放題)と比べて随分安いな。営業から蔵前は158万円だと聞いてるぞ。御苦労だけど確認してよ」。
社長はじめ経営陣が、率先して自分の為の裏金作りをしていた日本プロレス時代じゃあるまいし、そんな即バレの手口で全日本プロレスの営業や事務が小使い銭を稼いでいるはずが無いですわ。厳しい馬場夫人の目をかすめて、そんな幼稚な手段は使えない。でも、「聞き間違いかも知れないが、一応確認してくれ」と駒さんが言うので、興行規模の小さい国際プロレスしか使かわなかった公会堂を含めて、武道館を除いた東京の会場の構造とかキャパ、使用料を軒並み調べました。興行採算線ギリギリのキャッパ千五百以上で、プロレスにもオーケーの出る会場は、まだ東京でも10くらいしか無かった時代です。
「全日本プロレス・マシオ駒事務所、事務局長(社員1人だけどね)」の名刺を出して、「使わせてもらうかも知れないから、下見させて下さい」の一言で何処もオーケー。ある日など、テレビ収録の当日でしたが入れてもらえて、舞台のスソで五木ひろしや森進一のリハを見て、ピンカラ兄弟と世間話をしましたぞ。私の高貴な外貌はもとより、真夏にスーツ&ネクタイでしたから信用したんですね。どの会場からも、事務所に身元確認の電話は1度も有りませんでした。イヤ~、何と言いますか、性善説で世の中が廻っていた、実に長閑な良い時代でしたな・・・。
尺八に限らず芸能で生きて行くって、こういう感じですかね。初めは控室の内側の世界に憧れて、まずドキドキしながら扉をノックする。真っ当な方法は根気良く叩き続ける事。これは2千年に及ぶ長い間の労働習慣が培った日本人の習性です。言わば「東アジア型農民価値観」。これだと運良く招き入れられても、それでどうなるのかは分かりません。別の道として秘密の出入口を探す方法が有ります。別に「手っ取り早い方法」ではなく、あくまで「別の入口探し」です。ですから、これもキッカケを作るだけで後は分かりません。しかしながら、多くの日本人が自由業に対して、自分が選ぶ事に怯えるのは、「真っ当な方法しか無い。そして自分には才能もツテも無い」と思うからでは無いですかね。
ともかく控室の内側の人間になれたとしましょう。何年か経つと、夢の大半は「扉の前で中を伺っていた時代に有った」と気が付きます。どんな芸術でも職業とすれば綺麗ごとでは済まないし、別の入り口が存在する事が分かります。自分がコツコツ叩いても開かない扉に、スルッと要領良く入れた人を見て「ズルしやがって」と言う人は自由業に向いていないと思います。だって数字や勝ち負けで客観評価が出来ない世界ですもの。
だけど、どっちにしろ否応なく次の段階を迎えます。間断ないプレッシャー。でも、それより厄介なのがマンネリ。いつしか憧れも稼業になり、あれほど胸に溢れていたドキドキ、ワクワクが無くなりますもの。
逆を言えば、幾くつになっても「憧れが扉の向こうに存在する人生」って素敵です。若い時みたいに捨て身でぶつかれなくても、そういう気持ちを持ち続けることは、それまでの職業や年齢と関係無く可能だと思うのです。常識的に考えて、70の爺さんが白石麻衣や浜辺美波と恋仲になるなんて有り得ないですね。少し譲って広瀬すず、有村架純でも可能性は低いでしょう。でもファンクラブに入ったりファンレターを出したりは素敵ですね。嗤うヤツなんて、「イイトシになったから」ではなくて、最初から、そういう人なんです。
でね、老齢になれば、もう一からセオリー通りの努力を積み重ねて行く時間なんて無いですよ。諦めるか別の入り口を探すかですわな。「秘密の扉」を探すのは、そこはそれ、「年の功」。
今は厳重にガードされていて、単なるファンが仮にも控室の扉の前に立てたとしたら、余程に小さな催しで、しかも相手が「張り出し有名人」の場合でしょう。ところが昔はそうではなかった。勝手にスターの控室に入りこみ、話をしたりサインとかを貰う事も可能でした。勿論、中には怒られて摘み出された人もいたでしょうよ。でも、それをキッカケにしてスターと親しくなった人もいたんです。何も持たない人が度胸一つを財産にして勝負出来た時代が有りました。
いつくらいまで?。そう昭和50年、つまり1970年代の半ばまでは、そうだったと思います。現に私の知り合いで、同様の行為に及んだ者が何人もいましたもの。それをキッカケにして、その道に進み、いつの間にか「控室を抉じ開けた世界」で大御所になっている人だっています。
当時、公会堂で歌謡ショーとか有ったとしますわな。楽屋通用口の前には、いつもファン達が屯していましたが、鍵がかかっていて、決して一般人は入れません。ところが別の出入口から簡単に控室まで入れてしまうのです。芸能人や関係者達用のスペースまで行ってしまえば、余程に粗末な格好でウロウロしてない限り、「ドッカの関係者だろう」と思って誰も怪しみませんでした。だって、「関係者以外は入れない事になっている場所」にいるんですもの。
1例を挙げると、よく歌謡曲のテレビ収録に使われたS公会堂ですが、地下の控室の集まるエリアから階段を上って、舞台のスソに出ると、関係者の為に1階の喫茶店の奥に通じる「秘密のドア」が有りました。別に見張りなんかいないので、誰でも逆を通って歌手達がいる場所まで行けましたよ。どの会場にも同様のノウハウが存在しました。無いと使用する側にとっても逆に不便なのです。今みたいに情報がネットで忽ち拡散される時代では無いので、諸事がノンビリしていましたね。
どうして私が知っているのか?。もう時効だから言ってしまいましょう。昭和50年に消防法が改正される前は、会場の定員が何人であれ、どんだけの客を入れても構わなかったのです。ですから興行は前時代のままの「ドンブリ勘定」でした。特にプロレスの場合、事務や営業を巻き込んだ不正な裏金作りが横行していました。つまり経費の水増しは当たり前。招待券を売ったり、あるいは会場の椅子設置(セットバック)で帳簿上は存在しない席を1周作ったりして、ポケットマネーにするのです。当時はチケットに税務署の確認印が必要でしたが、有るはずがないチケットだもの検印も受けませんや。。知ってます?、満員札止めになると、現金でチケットが無い客を入れてたんですよ。その金の行き先は知りませんがね。ですからレスラーは事務方に対して、かなり根深い不信感を抱えていました。
私の場合は、ボスだったマシオ駒の疑問が切っ掛けでした。「大橋、東京体育館(キャパ9千。通路や階段まで使えば1万1千)の使用料って幾らだ?」。「興行だと1日36万円(昭和50年当時)です」、「そうか、蔵前国技館(キャパ1万だが詰め込み放題)と比べて随分安いな。営業から蔵前は158万円だと聞いてるぞ。御苦労だけど確認してよ」。
社長はじめ経営陣が、率先して自分の為の裏金作りをしていた日本プロレス時代じゃあるまいし、そんな即バレの手口で全日本プロレスの営業や事務が小使い銭を稼いでいるはずが無いですわ。厳しい馬場夫人の目をかすめて、そんな幼稚な手段は使えない。でも、「聞き間違いかも知れないが、一応確認してくれ」と駒さんが言うので、興行規模の小さい国際プロレスしか使かわなかった公会堂を含めて、武道館を除いた東京の会場の構造とかキャパ、使用料を軒並み調べました。興行採算線ギリギリのキャッパ千五百以上で、プロレスにもオーケーの出る会場は、まだ東京でも10くらいしか無かった時代です。
「全日本プロレス・マシオ駒事務所、事務局長(社員1人だけどね)」の名刺を出して、「使わせてもらうかも知れないから、下見させて下さい」の一言で何処もオーケー。ある日など、テレビ収録の当日でしたが入れてもらえて、舞台のスソで五木ひろしや森進一のリハを見て、ピンカラ兄弟と世間話をしましたぞ。私の高貴な外貌はもとより、真夏にスーツ&ネクタイでしたから信用したんですね。どの会場からも、事務所に身元確認の電話は1度も有りませんでした。イヤ~、何と言いますか、性善説で世の中が廻っていた、実に長閑な良い時代でしたな・・・。
尺八に限らず芸能で生きて行くって、こういう感じですかね。初めは控室の内側の世界に憧れて、まずドキドキしながら扉をノックする。真っ当な方法は根気良く叩き続ける事。これは2千年に及ぶ長い間の労働習慣が培った日本人の習性です。言わば「東アジア型農民価値観」。これだと運良く招き入れられても、それでどうなるのかは分かりません。別の道として秘密の出入口を探す方法が有ります。別に「手っ取り早い方法」ではなく、あくまで「別の入口探し」です。ですから、これもキッカケを作るだけで後は分かりません。しかしながら、多くの日本人が自由業に対して、自分が選ぶ事に怯えるのは、「真っ当な方法しか無い。そして自分には才能もツテも無い」と思うからでは無いですかね。
ともかく控室の内側の人間になれたとしましょう。何年か経つと、夢の大半は「扉の前で中を伺っていた時代に有った」と気が付きます。どんな芸術でも職業とすれば綺麗ごとでは済まないし、別の入り口が存在する事が分かります。自分がコツコツ叩いても開かない扉に、スルッと要領良く入れた人を見て「ズルしやがって」と言う人は自由業に向いていないと思います。だって数字や勝ち負けで客観評価が出来ない世界ですもの。
だけど、どっちにしろ否応なく次の段階を迎えます。間断ないプレッシャー。でも、それより厄介なのがマンネリ。いつしか憧れも稼業になり、あれほど胸に溢れていたドキドキ、ワクワクが無くなりますもの。
逆を言えば、幾くつになっても「憧れが扉の向こうに存在する人生」って素敵です。若い時みたいに捨て身でぶつかれなくても、そういう気持ちを持ち続けることは、それまでの職業や年齢と関係無く可能だと思うのです。常識的に考えて、70の爺さんが白石麻衣や浜辺美波と恋仲になるなんて有り得ないですね。少し譲って広瀬すず、有村架純でも可能性は低いでしょう。でもファンクラブに入ったりファンレターを出したりは素敵ですね。嗤うヤツなんて、「イイトシになったから」ではなくて、最初から、そういう人なんです。
でね、老齢になれば、もう一からセオリー通りの努力を積み重ねて行く時間なんて無いですよ。諦めるか別の入り口を探すかですわな。「秘密の扉」を探すのは、そこはそれ、「年の功」。
スポンサーサイト