コピー
- 2023/09/17
- 09:00
私の大学時代は、まだコピーが一般には普及していませんでした。法政大学の生協にコピー機が入ったのは1971年です。その頃のコピーは1枚20円(今の80円か100円)と高く、青緑色で出る俗に「青焼き」と呼ばれる物でした。ですから70年代の終わりまで、『調韻』という法政大学三曲会内の機関誌もガリ版で刷っていました。紙は今や文化遺産のワラ半紙です。
ですから、この時代は譜面は買うのが当たり前でした。現代邦楽は刊行されていないものが多かったので、1971年だと「手書き」で写していました。私も船川利夫の作品を3つ手書きした事を憶えています。
そして譜面は高かった。1970年、大学生が1日アルバイトして1500円の時代に「六段」120円、「千鳥の曲」150円、「秋の言葉」180円です。物価が2倍に上がった10年後1980年代初め、もうコピー機は普及していましたが、まだ尺八吹き達にはコピー譜の使用にタメライが有りました。1枚譜の「六段」250円、1枚半の「千鳥の曲」300円、2枚譜の「秋の言葉」で350円、3枚譜の「八重衣」だと500円もしました。言っちゃあ悪いがボロ儲けじゃん・・・。
昭和40年代まで譜面出版て美味しい仕事でしたね。ですから最盛期でも4百人の竹保流くらいの規模でも、自分で譜面を出版しました。ただ、この時代は「版」に金がかかるので、やはり採算的に苦しいと見えて、同盟を結んでいた上田流(竹保流の7倍くらいの会員数)と譜面の共同出版をしていました、私が竹保に入門した1970年でも、版にもれた曲は表紙の付いた青焼きコピー譜でしたよ。
それ以下の規模の流派って、そのほとんどが都山と上田から分離したのです。ですから都山譜をそのまま使ってもいましたし、ガリ版刷りの手製譜面も使っていましたな。強大な力を発揮した初代在世中の「統一都山時代」は新流派を起こすのも大変でした。
その点、宗家が存在しない琴古では、独立流派を名のる必要が無く、琴古流〇〇会、あるいは〇〇社という「独立会派立ち上げ」で済みますから、青譜(川瀬)、白譜(荒木)、黄譜(河本)のどれかを、そのまま使用しました。
戦前から昭和40年代にかけては譜面の販売は大きな収入源でした。都山流を例にとると、譜面こそ電灯、郵便の発達を最大限に生かした発展の原動力です。ソフトの一元管理で地方会員をコントロール出来ますし、それに伴う莫大な収入。例えば昭和10年代20年代には毎年千人単位の初伝修了者が出ていました。最盛時の昭和17年18年は1年に2千5百人ですが、入門者の全員が初伝免状を取得するわけではないですから、20年間にわたって毎年3千人を超す尺八入門者がいたのでしょう。この人達は1人の例外も無く初歩練習に必要な譜面を購入していたのです。そして1部が成人労働者の日給の1割にも相当しました。
古曲、本曲以外にも、続々と作曲された宮城や久本を始めとする新曲譜面の需要は高かったので、尺八譜を一手に握る都山の儲けは莫大なものでした。「宮城道雄の葉山(湘南)の別荘は都山からの分配金で建った」と言われたほどです。後年の大社中、宮城会も戦前は都山の数分の一規模でした。宮城会は宮城貴代子の時代(昭和30年代、40年代)に高度経済成長の波に乗って、宮城道雄在世中の10倍の規模に成長したのです。ですから統治モデルは都山流に有ります。
譜面販売もさることながら、それにつけても天才・宮城道雄に早くに目を付けた都山の眼力は大したものですな・・・。
今は譜面は大半の人がコピーで済まします。今では、新しい曲を出版するとしてもコンピューターで手間いらずですから、活字の版組みは遠い昔の話になりました。なんせ無料の流派表記法転換ソフトまで有りますもんね。
その前に、今は誰も譜面を欲しがらない。尺八をやめた方達が私の所に「誰かにあげてくれ」と大量に持ち込む様になったのは10年くらい前からです。初めのうちは、展示会で並べて「無料で御持ち下さい」とやってましたが、貯まる一方なので、今は「燃えるゴミに出してください」と断っています。古本屋に持ち込むと交通費分だけ損をしますし、結果は同じです。ただちに「ゴミ処理」ですもの。
「情けない」って言ったってねえ、歓迎すべき事態とは私も思いませんよ。でも方法が無いじゃない。今の人って現代オリジナル尺八曲だって、別に自分が吹きたいとは思っていないみたいですぜ。吹きたい曲の大半は5線譜市場に有るということですかね。
あのな、譜面が売れないのを憤慨する前にだ、まず、どうやって入手するのか教えてよ。流派によって曲が違うとか、新しい曲の刊行を妨害したり、修正なしで刊行を続けているし、何処とは言わないけれど地方での講習会の譜面が間に合わず、「そっちで指定したんだろ、入手できねえよ、バカ」の声が挙がっても、それでもコピーを許可しなかったとか。これじゃコピー譜の使用を非難できねえよ。
ですから、この時代は譜面は買うのが当たり前でした。現代邦楽は刊行されていないものが多かったので、1971年だと「手書き」で写していました。私も船川利夫の作品を3つ手書きした事を憶えています。
そして譜面は高かった。1970年、大学生が1日アルバイトして1500円の時代に「六段」120円、「千鳥の曲」150円、「秋の言葉」180円です。物価が2倍に上がった10年後1980年代初め、もうコピー機は普及していましたが、まだ尺八吹き達にはコピー譜の使用にタメライが有りました。1枚譜の「六段」250円、1枚半の「千鳥の曲」300円、2枚譜の「秋の言葉」で350円、3枚譜の「八重衣」だと500円もしました。言っちゃあ悪いがボロ儲けじゃん・・・。
昭和40年代まで譜面出版て美味しい仕事でしたね。ですから最盛期でも4百人の竹保流くらいの規模でも、自分で譜面を出版しました。ただ、この時代は「版」に金がかかるので、やはり採算的に苦しいと見えて、同盟を結んでいた上田流(竹保流の7倍くらいの会員数)と譜面の共同出版をしていました、私が竹保に入門した1970年でも、版にもれた曲は表紙の付いた青焼きコピー譜でしたよ。
それ以下の規模の流派って、そのほとんどが都山と上田から分離したのです。ですから都山譜をそのまま使ってもいましたし、ガリ版刷りの手製譜面も使っていましたな。強大な力を発揮した初代在世中の「統一都山時代」は新流派を起こすのも大変でした。
その点、宗家が存在しない琴古では、独立流派を名のる必要が無く、琴古流〇〇会、あるいは〇〇社という「独立会派立ち上げ」で済みますから、青譜(川瀬)、白譜(荒木)、黄譜(河本)のどれかを、そのまま使用しました。
戦前から昭和40年代にかけては譜面の販売は大きな収入源でした。都山流を例にとると、譜面こそ電灯、郵便の発達を最大限に生かした発展の原動力です。ソフトの一元管理で地方会員をコントロール出来ますし、それに伴う莫大な収入。例えば昭和10年代20年代には毎年千人単位の初伝修了者が出ていました。最盛時の昭和17年18年は1年に2千5百人ですが、入門者の全員が初伝免状を取得するわけではないですから、20年間にわたって毎年3千人を超す尺八入門者がいたのでしょう。この人達は1人の例外も無く初歩練習に必要な譜面を購入していたのです。そして1部が成人労働者の日給の1割にも相当しました。
古曲、本曲以外にも、続々と作曲された宮城や久本を始めとする新曲譜面の需要は高かったので、尺八譜を一手に握る都山の儲けは莫大なものでした。「宮城道雄の葉山(湘南)の別荘は都山からの分配金で建った」と言われたほどです。後年の大社中、宮城会も戦前は都山の数分の一規模でした。宮城会は宮城貴代子の時代(昭和30年代、40年代)に高度経済成長の波に乗って、宮城道雄在世中の10倍の規模に成長したのです。ですから統治モデルは都山流に有ります。
譜面販売もさることながら、それにつけても天才・宮城道雄に早くに目を付けた都山の眼力は大したものですな・・・。
今は譜面は大半の人がコピーで済まします。今では、新しい曲を出版するとしてもコンピューターで手間いらずですから、活字の版組みは遠い昔の話になりました。なんせ無料の流派表記法転換ソフトまで有りますもんね。
その前に、今は誰も譜面を欲しがらない。尺八をやめた方達が私の所に「誰かにあげてくれ」と大量に持ち込む様になったのは10年くらい前からです。初めのうちは、展示会で並べて「無料で御持ち下さい」とやってましたが、貯まる一方なので、今は「燃えるゴミに出してください」と断っています。古本屋に持ち込むと交通費分だけ損をしますし、結果は同じです。ただちに「ゴミ処理」ですもの。
「情けない」って言ったってねえ、歓迎すべき事態とは私も思いませんよ。でも方法が無いじゃない。今の人って現代オリジナル尺八曲だって、別に自分が吹きたいとは思っていないみたいですぜ。吹きたい曲の大半は5線譜市場に有るということですかね。
あのな、譜面が売れないのを憤慨する前にだ、まず、どうやって入手するのか教えてよ。流派によって曲が違うとか、新しい曲の刊行を妨害したり、修正なしで刊行を続けているし、何処とは言わないけれど地方での講習会の譜面が間に合わず、「そっちで指定したんだろ、入手できねえよ、バカ」の声が挙がっても、それでもコピーを許可しなかったとか。これじゃコピー譜の使用を非難できねえよ。
スポンサーサイト