蝦蟇の油

私が大学2年の時だから1970年です。1年上の目黒さんの下宿が新小岩に在って、皆の溜り場になっていました。ある日、私は泊まった翌日、昼過ぎまで寝ていて、もう学校に行くのも面倒になって夕方まで映画を見ていました。その後、新小岩駅前の通りを歩いていると人ダカリが出来ているので、覗いたところ「ガマの油売り」の実演でした。蝦蟇の油、御坊力、蛇毒エキス（痛み止め）、バナナの叩き売り、八つ目ウナギ（鳥目治療）、石見銀山（殺鼠剤）、このての大道商売は、その10年前には完全に死滅していて、久しぶりで嬉しくなったので、段取りを見ていました。
そして20分ほどで口上というより説明が終わると「ガマの油」の販売です。驚くなかれ1個3百円。私が1日バイトして1500円だった時代にですよ。それが見る間に売れて行き、僅か2，3分で10個以上売れました。こういうのは時間を空けて３，４回繰り返すのが普通ですから、エ～、1日に1万円以上、本当かよ、エ～。「蝦蟇の油売り」は子供の時に何度か見ていましたが、その時まで、こんなビッグビジネスだとは思わなかった。

でも開業するには縄張りを仕切る親分の許可が要ります。そのくらいは私でも知ってました。決断即実行が私の信条ですから、もう翌日には地元の親分のところに挨拶に行ってました。行くにあたって1年先輩の木稲さんに訊きました。「どう言えば良いですかね？」、「そりゃ、オメエ、ヤッパリ最初は、お控えなさって、だろうよ」。「ヤッパリそうですよね。で、次は？」。少し考えて、「御願いします。ヤクザにしてください、で良いんじゃないかな」。
先輩のアドヴァイスですから、その通りやりました。で、どうだったか？って。まず「オマエはバカか。挨拶は受けねえ」と怒鳴りつけられて、次の「ヤクザにして下さい」で呆れられて、そして何となく子分にしてもらいました。親分は新宿、中野、杉並一帯をシマにする杉東会の北島哲三郎という方で、身長は150センチ位の小男でしたが、怒鳴り声はサイレン並み、獅子頭みたいな顔をしていましたが、怖い外見と裏腹に、とても気の優しい、他人に温かい人でしたね。私が持参した日本刀を見て、「それで自分の腕を切るのか。まあケガをしないようにな」と心配してくれました。私は当時も純でしたから、「ああ、その事なら大丈夫です。お話したように、僕は新小岩で買った本物の蝦蟇の油を持っていますから」と答えたところ、苦笑いと共にチョット憐れんだ表情をしましたかね。
「身内にはするけどよ、ナア学生さん、アンタはこれから大臣に成るか学者に成るか、それとも社長になるか分からない人だ。だから足を洗いたくなったら、オレは構わないから、すぐ辞めるんだよ」。だから今も私の指は10本健在です。7孔尺八を吹く予定は有りませんでしたが、その温情に今も感謝しています。

開業にあたって、とりあえずの手下に吉田と林嵐山を雇い、木稲さんには無給でサクラ役を頼みました。ですから彼等だって一時は大橋一家の組員だったわけです。何せ当時では珍しい鉄筋3階建の親分の自宅を見てますからね、こりゃ大儲け間違いないと思っていたので林、吉田には大判振舞の日給2千円です。「蝦蟇の油」はワセリンで、入れ物の缶と共に友人だった薬屋の息子が卸値で揃えてくれました。百個分で6百円、1個原価6円です。
吉田、「それ幾らで売るんだよ」、私、「百円、だって原価6円だし、だいいち本物じゃねえもんな」。林も吉田も外見はどうあれ、根は利口者ですから、「もっと高くした方が良いよ、そう言っちゃ何だが、コンナ物に引っかかるバカ、いやオカタがそんなに多いとは思えないもんな、2百円にしたら？」と言いました。。冗談じゃない、単なるワセリンを2百円で売ったら人間性を疑われちゃう。それ以前に私の良心の問題だ。高級な人間は、金の為なら何でもやるオマエラとは品格が違うんだ・・・。

「この種の物」を売る商売とは、本当のところ何を売ってるんでしょうか？。「分かっていてガマの油の芸を買ってる」と言う人がいます。私の経験でも2割くらいがそうでしょう。「面白れえモンを見たぜ、あんなの今でも有るんだなあ」と、どうせ百円だからシャレで買って「話のタネ」にするんでしょう。本当の傷薬だと思って買う人が、これまた2割か3割。あとの5、６割の人の気持ちこそ、尺八に限らず伝統邦楽のプロはキモに銘じるべき事だと思いますね。
「今時こんな事をしてんだ、少しは応援してやろう」の寄付行為、「こういうのも無くなると寂しいな」とかの贔屓感情、「まあ良いか、腕まで切って一生懸命やってんだし」の同情、中には「懐かしいなあ」との懐古趣味。こういう気持ちが入り混じっての購入です。
新小岩の駅前での「蝦蟇の油売り」はプロの仕事で、1970年ですから、もう「御用と御急ぎでない方は寄ってらっしゃい見てらっしゃい、見て後学としてお帰りなさい・・・」で始まる定番の口上は有りません。大学教授の書いた「単に学会で発表しただけの論文」の写しとか、「ガマの分泌液の成分がどうの」と解説して有る百科辞典を持ち出したり、とにかく「近代科学が見落としている驚異の伝統薬」で徹頭徹尾押し通します。だから全員が納得して3百円で買ったのです。でも、これは人を瞞着する行為だ。
たしかに「蝦蟇の油」などパフォーマンス無し、例えば薬屋の店頭に並べても決して売れません。私が日本刀でで吉田の投げた大根を真っ二つにしたり、腕を切って血を流すのは、客を話の途中で逃がさないための芸です。

尺八に人気が無い事を否定する人はいないでしょう。言葉を変えれば「たくさん有る楽器、音楽の中では選択の対象にならない」という事です。聴いて面白くないから。では人気の大きい音楽と違った売り方も必要ではないですかね。前に某プロに仕事を依頼した時、「皆に循環奏法をやって見せてくれ」と言ったところ、少しイヤな顔をされました。「循環は見世物じゃない」と言うことなんでしょう。でも「蝦蟇の油」のパフォーマンスと同じで、当時これほど人を驚嘆させたものは無いですよ。
尺八の楽器としての特性、音楽としての美しさ、今や、その方面の進歩は目覚ましい。でも、そういうのだけが「尺八の売り物」ではないですよ。尺八って一直線に楽器としての性能だけを追求してきたんじゃないもの。「神秘性」、「精神性」なんて言うと、「そういうモノかね」で済んでしまいがちですが、言ってみれば祠の中みたいな、「イカガワシサを多少含んだ奥の薄暗さ」。これが尺八の別の魅力で、これ有ればこそ、国を越えて多くの人が興味を示すのです。でなくて地無し管の人気を説明できないでしょう。「地無し愛好家って演奏も理論も未熟じゃないか」と切り捨てるのではなくて、新たに「純然たる楽器」と別の魅力の追求、「何が人を引き付けているのか」の分析と研究も必要だと思います。