尺八バブル
- 2015/03/10
- 22:45
1980年代後半のバブルと言われた時代、尺八屋にとって、勿論今よりは良いに決まっていますが、さほど景気が良かったというのでもありません。尺八の一番売れた時、それは昭和40年から50年頃にかけての10年ほどの間でしょう。それは民謡ブームが創りだした現象です。
私が大学に入った昭和44年、私の尺八が出来てきたのは注文をたててから半年後です。私の一年後輩は七、八ヶ月かかりました。昭和50年くらいになると、もう二ヶ月ほどに縮まりました。ピークは過ぎたのでしょう。
民謡ブームの時に両国にあった日大講堂で四日間にわたって民謡フェアが行われたおり、尺八は400本売れたと言います。
菊池淡水の贔屓を受けた引地容山さんは10年で東京にビルを建てました。
竹仙工房はピーク時に年に3000本の尺八を生産しました。
民謡尺八の代表的なメーカーである竹治は年間生産1800本と公称していました。
いくつか例を挙げましたが、民謡尺八の吹き手は短期に急激に増え、一番多い時で5~6万人いたのではないでしょうか。私が調査した平成4年でも3万人以上いたと思います。その15年前では人によって10万人いたのではと言うくらいです。現在は1万人にも満たないと思います。
しかも民謡尺八は声に合わせて尺八を替えていくので、とにかく数が必要になるのです。ですから製管師にとって途方もない需要を生み出しました。
この民謡ブームは成り立ちからしてバブルの要素が強いのです。私の子供の頃でも、民謡が好きなオトナは少数派でした。民謡ブームの実態は「お稽古民謡ブーム」だと思います。
戦前の家庭の主婦は、朝は誰よりも早く起き、夜は家族の中で一番遅く寝ていました。その間働き詰めです。自分の楽しみはおろか自分の時間すら持てませんでした。
それが戦後になって、所得が上がり、家庭内労働のかなりの部分が金銭で買えるようになり、また家電の普及が主婦仕事をいちじるしく軽減しました。日本の主婦が自由になる時間を持ち、それを吸収したのが民謡教室です。
今、もう主婦は互いに誘いあわさなくても自分で趣味を見つけられるようになりました。民謡にとってかわったのがカラオケだとしても、もしカラオケが無ければ無いで、必ず民謡は他の何かに取って代わられました。製管師にとって「神風」となった民謡ブームはすでに遠いことになってしまい、もう二度とブームになることはありません。
私が大学に入った昭和44年、私の尺八が出来てきたのは注文をたててから半年後です。私の一年後輩は七、八ヶ月かかりました。昭和50年くらいになると、もう二ヶ月ほどに縮まりました。ピークは過ぎたのでしょう。
民謡ブームの時に両国にあった日大講堂で四日間にわたって民謡フェアが行われたおり、尺八は400本売れたと言います。
菊池淡水の贔屓を受けた引地容山さんは10年で東京にビルを建てました。
竹仙工房はピーク時に年に3000本の尺八を生産しました。
民謡尺八の代表的なメーカーである竹治は年間生産1800本と公称していました。
いくつか例を挙げましたが、民謡尺八の吹き手は短期に急激に増え、一番多い時で5~6万人いたのではないでしょうか。私が調査した平成4年でも3万人以上いたと思います。その15年前では人によって10万人いたのではと言うくらいです。現在は1万人にも満たないと思います。
しかも民謡尺八は声に合わせて尺八を替えていくので、とにかく数が必要になるのです。ですから製管師にとって途方もない需要を生み出しました。
この民謡ブームは成り立ちからしてバブルの要素が強いのです。私の子供の頃でも、民謡が好きなオトナは少数派でした。民謡ブームの実態は「お稽古民謡ブーム」だと思います。
戦前の家庭の主婦は、朝は誰よりも早く起き、夜は家族の中で一番遅く寝ていました。その間働き詰めです。自分の楽しみはおろか自分の時間すら持てませんでした。
それが戦後になって、所得が上がり、家庭内労働のかなりの部分が金銭で買えるようになり、また家電の普及が主婦仕事をいちじるしく軽減しました。日本の主婦が自由になる時間を持ち、それを吸収したのが民謡教室です。
今、もう主婦は互いに誘いあわさなくても自分で趣味を見つけられるようになりました。民謡にとってかわったのがカラオケだとしても、もしカラオケが無ければ無いで、必ず民謡は他の何かに取って代わられました。製管師にとって「神風」となった民謡ブームはすでに遠いことになってしまい、もう二度とブームになることはありません。
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