袖すりあうも 其七(高橋竹山さん)
- 2015/03/24
- 21:17
1976年の初夏のこと、私の企画した演奏会に津軽三味線の高橋竹山さんに出ていただきました。会場は当時としても邦楽演奏会では手にあまるキャパシティ千人の久保講堂です。
私が会場に到着すると、その時66才の高橋さんは陽だまりの中に立っていらっしゃいました。田舎のお爺さんがノンビリ日向ぼっこしているという穏やかな風景を今も昨日のように思い出します。
初対面の挨拶の後に、しばらく世間話をしましたが、そこも全く田舎の穏やかな老人との会話という感じで、全くの自然体です。威厳も偉ぶりも全く有りません。目は少しは見えていたのでしょうか、時々うっすらと日光を探すそぶりをします。暖かい光だけを感じていたのかも知れません。
高橋竹山さんの人生は50くらいまで恵まれたものでは無かったと思います。民謡の世界では少しは知られていましたが、成田雲竹の三味線伴奏者としての方が有名でしたでしょう。
1973年、渋谷に有ったジャンジャンに出てから一躍全国区の名をはせました。当時、ジャンジャンで最も客を入れたのが高橋竹山と五輪真弓です。そうは言ってもジャンジャンは百人,、詰めても二百人は入らない小会場でしかありません。小さくても大きな影響力をもったライブハウスでした。
高橋さんのマネージメントもジャンジャンがやっており、当初出演交渉をすると、ギャラ35万円と言われましたが、私が「20万しか出せない」と言うと、あっさり20万円にしてくれました。その商売っ気な無さが閉館の遠因になったのでしょうか?いずれにしろ、今でも私は「気持ちの良い人達だったなあ」と鮮やかな印象を持っています。
高橋竹山は穏やかな人でしたが、弟子の高橋竹童さんに聞いたところによると、一度だけ激怒したことが有るそうです。弟子達と話をしていて「ロシア語で猿のことをマッカッカというんだぞ」と学の有る所を自慢したところ、皆に「またー、いい加減なこと言って」と笑われて、「本当だ」と怒ったそうです。和気藹々、良い師匠良い弟子ですね。
その会も弟子の竹与さんと一緒でしたが、竹与さんを二代竹山に指名したのは、高橋竹山さんならではの配慮と言われており、暖かい人柄を感じさせます。
高橋竹山は尺八も吹きました。その尺八を10本ほど私が手を入れましたが、外観といい、音程音量といい、良い物ではありませんでした。ダモノと言ったら悪いですが、いわゆるソコソコ尺八です。そして、その尺八演奏はと言えば、けっして上手ではありませんが、それを聞いた若き日のライリー・リーさんが「あまりの感動に言葉も出なかった」と感想を述べていましたっけ、そういう尺八を聴けなくなって久しいです。
4年前の東日本大震災、高橋さんが生きておられたら・・・。高橋さんは1933年の三陸大地震に遭遇しています。泊まっていた宿は全壊し、津波の来る寸前に裏山に逃げて、九死に一生を得たと言います。
きっと大声で叫んだだに違いありません。「早く逃げろ、津波が来るぞー」
私が会場に到着すると、その時66才の高橋さんは陽だまりの中に立っていらっしゃいました。田舎のお爺さんがノンビリ日向ぼっこしているという穏やかな風景を今も昨日のように思い出します。
初対面の挨拶の後に、しばらく世間話をしましたが、そこも全く田舎の穏やかな老人との会話という感じで、全くの自然体です。威厳も偉ぶりも全く有りません。目は少しは見えていたのでしょうか、時々うっすらと日光を探すそぶりをします。暖かい光だけを感じていたのかも知れません。
高橋竹山さんの人生は50くらいまで恵まれたものでは無かったと思います。民謡の世界では少しは知られていましたが、成田雲竹の三味線伴奏者としての方が有名でしたでしょう。
1973年、渋谷に有ったジャンジャンに出てから一躍全国区の名をはせました。当時、ジャンジャンで最も客を入れたのが高橋竹山と五輪真弓です。そうは言ってもジャンジャンは百人,、詰めても二百人は入らない小会場でしかありません。小さくても大きな影響力をもったライブハウスでした。
高橋さんのマネージメントもジャンジャンがやっており、当初出演交渉をすると、ギャラ35万円と言われましたが、私が「20万しか出せない」と言うと、あっさり20万円にしてくれました。その商売っ気な無さが閉館の遠因になったのでしょうか?いずれにしろ、今でも私は「気持ちの良い人達だったなあ」と鮮やかな印象を持っています。
高橋竹山は穏やかな人でしたが、弟子の高橋竹童さんに聞いたところによると、一度だけ激怒したことが有るそうです。弟子達と話をしていて「ロシア語で猿のことをマッカッカというんだぞ」と学の有る所を自慢したところ、皆に「またー、いい加減なこと言って」と笑われて、「本当だ」と怒ったそうです。和気藹々、良い師匠良い弟子ですね。
その会も弟子の竹与さんと一緒でしたが、竹与さんを二代竹山に指名したのは、高橋竹山さんならではの配慮と言われており、暖かい人柄を感じさせます。
高橋竹山は尺八も吹きました。その尺八を10本ほど私が手を入れましたが、外観といい、音程音量といい、良い物ではありませんでした。ダモノと言ったら悪いですが、いわゆるソコソコ尺八です。そして、その尺八演奏はと言えば、けっして上手ではありませんが、それを聞いた若き日のライリー・リーさんが「あまりの感動に言葉も出なかった」と感想を述べていましたっけ、そういう尺八を聴けなくなって久しいです。
4年前の東日本大震災、高橋さんが生きておられたら・・・。高橋さんは1933年の三陸大地震に遭遇しています。泊まっていた宿は全壊し、津波の来る寸前に裏山に逃げて、九死に一生を得たと言います。
きっと大声で叫んだだに違いありません。「早く逃げろ、津波が来るぞー」
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