自分を知れ
- 2015/04/01
- 23:27
戦前に「馬賊の歌」というのが流行りました。私は戦後生まれですが、この歌はけっこうオトナで酔うと歌う人がいて、当時の子供はたいてい知っていました。かつての拓殖大学の「第二校歌」みたいな「蒙古放浪歌」と同工異曲のもので、戦前の若者の血をたぎらせた大陸雄飛の夢を歌ったモノですわ。何処まで本当かホラ話か分からない「馬賊小説」を私の父親も夢中で読んだと言ってましたから、そういう時代だったのですね。
ともかく、その歌詞に「海のむこうにゃ支那が待つ、支那にゃ四億の民が待つ」と有りましたので、昭和の初め頃、日本人は中国の人口を四億と見積もっていたわけです。でも清代の資料によると1830年で中国の人口は三億九千五百万ですし、ほぼ正確な数字が確定した1985年からの逆算でも、20世紀に入った時点で本当は六億いたと思います。
中国の人口は1970年代まで中国政府自体が分からず、毛沢東に次ぐナンバー2の周恩来が1970年頃「良く分からない、でも十億近いとは思わない」とコメントしました。その頃、中華人民共和国では役所ごとに違った数字を使っていました。最少は七億五千万、最大で八億三千万、行政機関がこれじゃ国の将来について計画できませんわ。
今から20年前、私が尺八の全人口を割り出しました。全部で六万人、うち古典系は約三万。あるパーティーで、藤由越山さんから「私の師匠の堀井小二朗が昔、尺八は七十万人と推定しましたが、すごく減ってしまいましたね」と言われたことが有りました。私は次のように見解を述べました。堀井さんの推定も流派の名簿が基本になっていますが、次の2点に大きな錯誤が有ります。まず琴古が都山と人数的に同レベルだとしている点、さらにより重大な過ちは、一人の師範に対して弟子十人と計算していること、師範1に弟子10が有り得るのは興隆期にある団体のほんの一時期の現象です。戦前の都山、あるいは民謡ブームの時の米谷とか小路がそうでした。
三味線の藤本が前に「藤本三十万」と言っていましたが、これも師範1に弟子15というのが論拠です。まあプロパガンダで本当は分かっていて言ってるのなら良いのですが、邦楽はそうでないからコワイ、30年くらい前、関西に基盤を持つプロ尺八家に「東京リサイタル」の相談を受けました。その方の見積もり数字の甘い事アマイコト。その五分の一のチケットしか出ない事は明白でした。
これは私も読み違いをしました、十分の一しか出なかったのです。
今は尺八では過大な数字を論拠に計画を立てる人がいなくなりましたが、それもまた企画のスケールが小さくなって詰まらないですね。
ともかく、その歌詞に「海のむこうにゃ支那が待つ、支那にゃ四億の民が待つ」と有りましたので、昭和の初め頃、日本人は中国の人口を四億と見積もっていたわけです。でも清代の資料によると1830年で中国の人口は三億九千五百万ですし、ほぼ正確な数字が確定した1985年からの逆算でも、20世紀に入った時点で本当は六億いたと思います。
中国の人口は1970年代まで中国政府自体が分からず、毛沢東に次ぐナンバー2の周恩来が1970年頃「良く分からない、でも十億近いとは思わない」とコメントしました。その頃、中華人民共和国では役所ごとに違った数字を使っていました。最少は七億五千万、最大で八億三千万、行政機関がこれじゃ国の将来について計画できませんわ。
今から20年前、私が尺八の全人口を割り出しました。全部で六万人、うち古典系は約三万。あるパーティーで、藤由越山さんから「私の師匠の堀井小二朗が昔、尺八は七十万人と推定しましたが、すごく減ってしまいましたね」と言われたことが有りました。私は次のように見解を述べました。堀井さんの推定も流派の名簿が基本になっていますが、次の2点に大きな錯誤が有ります。まず琴古が都山と人数的に同レベルだとしている点、さらにより重大な過ちは、一人の師範に対して弟子十人と計算していること、師範1に弟子10が有り得るのは興隆期にある団体のほんの一時期の現象です。戦前の都山、あるいは民謡ブームの時の米谷とか小路がそうでした。
三味線の藤本が前に「藤本三十万」と言っていましたが、これも師範1に弟子15というのが論拠です。まあプロパガンダで本当は分かっていて言ってるのなら良いのですが、邦楽はそうでないからコワイ、30年くらい前、関西に基盤を持つプロ尺八家に「東京リサイタル」の相談を受けました。その方の見積もり数字の甘い事アマイコト。その五分の一のチケットしか出ない事は明白でした。
これは私も読み違いをしました、十分の一しか出なかったのです。
今は尺八では過大な数字を論拠に計画を立てる人がいなくなりましたが、それもまた企画のスケールが小さくなって詰まらないですね。
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