全国学生三曲連盟
- 2015/05/19
- 22:04
大学の邦楽クラブは地区ごとに連合体を形成しています。
関東学生三曲連盟(関学三)、関西学生邦楽連盟(関邦連)、京都学生三曲連盟(京学三)が代表的なものですが、全国に存在していました。
私の母校・法政大学三曲会も関学三に所属していて、1968年の関学三の組織再編当時から中心的なクラブでした。1968年に、それまでの幹事校制に代わって執行部制にして、よりダイナミックな行動を採れるように組織変革しまして、初代の委員長が明治大学の佐野達也(鈴霏)、それを支える執行部の委員は中央大学の香川朝則(一朝)、電機大学の永瀬憲治、法政大学の西山哲郎の3人です。これが今に続く新生関学三です。
1970年くらいから、もっと拡げて全国学生三曲連盟を創ろうと言う提案が出されました。提唱者は永瀬さんです。この方は学生の時に、信奉していた船川利夫の作品を集めたLPレコードを作り、卒業してからも会社を起こし、詩吟のアダプターをはじめ種々の邦楽商品を世に出した人です。この方の作った物の中で、尺八吹きに一番馴染みがあるのはプラスチック尺八「悠」でしょう。
十条に有った永瀬さんの会社に行くと、弟さんをはじめ、郡川直樹さん、橋本竹詠さん、河野正明さんなどがいて、さながら梁山泊の観がありました。とにかくスケールの大きい人です。
脱線しましたが、永瀬さんの考えは、学生の組織が大きくなれば、やれることも多くなるし既成の邦楽界にたいする揺さぶりにもなる、と言うようなものです。
関学三の学生のチケット販売力はプロにとっても無視できない、事実学生の支持を得た邦楽家のコンサートは常に満杯でしたし、学生の企画したコンサートも行われていました。これを全国規模にまで拡げれば、より邦楽界に対し影響力や圧力をもった存在になり、邦楽界全体の改革にも繋がる。
見事な見識で、大阪市立大の倉橋義雄(容堂)さんが関邦連の意見を纏め、京都学三も若くして亡くなった同志社大学の平野さんなどが中心になり呼応しました。けれど肝心の関東が「時期尚早」で反対の姿勢を示し、結局、1972年12月の東大阪で行なった全国学生三曲連盟の第一回演奏会には関学三からは青山学院大学だけが参加という淋しいものでした。
われわれ法政大学三曲会は演奏には加わりませんでしたが、それでも演奏会には粟田以下、私や林嵐山など7,8人が行き、「流石は義理堅い法政」と面目をほどこしました。当時の法政は技術的な評価は低かったものの、その組織力と一度約束したことは必ず守るで律儀さで「敵にまわすと面倒だが、味方にすると頼もしい」と言われていたことは後になって知りました。
法政大学三曲会の首領、粟田和成は依頼されればチケットを誰彼かまわず多量に預かり、売れ残っても自分で負担しましたので、大学4年間で70万円もの借金をつくりました。今の3~4O0万でっせ、半分大人物で半分バカです。
この頃は、学生でも力を結集すれば体制すら揺るがす事が出来ると考えていた時代です。1969年の初代執行部の自分達は何もやれなっかたという総懺悔、その時に全電通労働会館を埋めた五百人の学生のどよめき、飲むと決まって飛び出した邦楽界批判、邦楽の現状への悲憤慷慨、夜行列車に乗って手弁当で飛び回った者達はまぎれもなく志士達でした。
あれから40年以上が過ぎ、全国学生三曲連盟もモハヤ遠い夢となりましたが、今尺八界を実質的に動かしているのは学生邦楽の出身者達です。やがて芸大出にバトンを渡すとしても、今は夢の跡には花が咲いています。
関東学生三曲連盟(関学三)、関西学生邦楽連盟(関邦連)、京都学生三曲連盟(京学三)が代表的なものですが、全国に存在していました。
私の母校・法政大学三曲会も関学三に所属していて、1968年の関学三の組織再編当時から中心的なクラブでした。1968年に、それまでの幹事校制に代わって執行部制にして、よりダイナミックな行動を採れるように組織変革しまして、初代の委員長が明治大学の佐野達也(鈴霏)、それを支える執行部の委員は中央大学の香川朝則(一朝)、電機大学の永瀬憲治、法政大学の西山哲郎の3人です。これが今に続く新生関学三です。
1970年くらいから、もっと拡げて全国学生三曲連盟を創ろうと言う提案が出されました。提唱者は永瀬さんです。この方は学生の時に、信奉していた船川利夫の作品を集めたLPレコードを作り、卒業してからも会社を起こし、詩吟のアダプターをはじめ種々の邦楽商品を世に出した人です。この方の作った物の中で、尺八吹きに一番馴染みがあるのはプラスチック尺八「悠」でしょう。
十条に有った永瀬さんの会社に行くと、弟さんをはじめ、郡川直樹さん、橋本竹詠さん、河野正明さんなどがいて、さながら梁山泊の観がありました。とにかくスケールの大きい人です。
脱線しましたが、永瀬さんの考えは、学生の組織が大きくなれば、やれることも多くなるし既成の邦楽界にたいする揺さぶりにもなる、と言うようなものです。
関学三の学生のチケット販売力はプロにとっても無視できない、事実学生の支持を得た邦楽家のコンサートは常に満杯でしたし、学生の企画したコンサートも行われていました。これを全国規模にまで拡げれば、より邦楽界に対し影響力や圧力をもった存在になり、邦楽界全体の改革にも繋がる。
見事な見識で、大阪市立大の倉橋義雄(容堂)さんが関邦連の意見を纏め、京都学三も若くして亡くなった同志社大学の平野さんなどが中心になり呼応しました。けれど肝心の関東が「時期尚早」で反対の姿勢を示し、結局、1972年12月の東大阪で行なった全国学生三曲連盟の第一回演奏会には関学三からは青山学院大学だけが参加という淋しいものでした。
われわれ法政大学三曲会は演奏には加わりませんでしたが、それでも演奏会には粟田以下、私や林嵐山など7,8人が行き、「流石は義理堅い法政」と面目をほどこしました。当時の法政は技術的な評価は低かったものの、その組織力と一度約束したことは必ず守るで律儀さで「敵にまわすと面倒だが、味方にすると頼もしい」と言われていたことは後になって知りました。
法政大学三曲会の首領、粟田和成は依頼されればチケットを誰彼かまわず多量に預かり、売れ残っても自分で負担しましたので、大学4年間で70万円もの借金をつくりました。今の3~4O0万でっせ、半分大人物で半分バカです。
この頃は、学生でも力を結集すれば体制すら揺るがす事が出来ると考えていた時代です。1969年の初代執行部の自分達は何もやれなっかたという総懺悔、その時に全電通労働会館を埋めた五百人の学生のどよめき、飲むと決まって飛び出した邦楽界批判、邦楽の現状への悲憤慷慨、夜行列車に乗って手弁当で飛び回った者達はまぎれもなく志士達でした。
あれから40年以上が過ぎ、全国学生三曲連盟もモハヤ遠い夢となりましたが、今尺八界を実質的に動かしているのは学生邦楽の出身者達です。やがて芸大出にバトンを渡すとしても、今は夢の跡には花が咲いています。
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