縄文の記憶
- 2015/06/08
- 22:28
日本の歴史も科学、とりわけ遺伝子の研究が進んだことで大部解明が進みました。
大筋では複数系統のマレー系の人達が北上してきて日本列島に住みつき、約1万5千年くらい前から縄文時代と呼ばれる新石器文化を開いた。
主食はドングリ等の堅果類からとったデンプンですが、これはカロリーのみなので、果物、野草、魚貝、鳥、獣を自然採集して栄養を補った。
4500年ほど前にピークを迎え20~30万人の人口。広葉樹の多かった東日本に人口の95パーセント以上が住んでいた。
その後、気候変動が起こり堅果類の採集が減り人口は7~8万に減る。それが2500年前。
その後、朝鮮半島経由でツングース系の人達が稲作を持って入ってきて弥生文化が始まる。千年以上にわたり数十万から百万もの人口流入が有ったと聞きましたが、数はともかく日本人の血の大部分がこの弥生人です。
北へ押し上げられた縄文人はアイヌとなり、沖縄に手つかずで残った別系統の縄文人は琉球人となった。ここまでは大筋では間違いないと思われます。
さて、私達の中に縄文の名残は残っているのでしょうか?基礎語彙の中には縄文起源のモノも有りそうな気もしますが、それより魚の塩焼きとか干物とかは絶対そうですし、貝の塩汁、生魚の鮓シメ、干し柿、栃やドングリの餅も縄文人の御馳走だったと考えられます。
縄文時代も現代も変わらぬものは日本の自然です。そこに何を感じたかは当然違うでしょうが、瀬音、泉、コオロギ、うぐいす、雪、時雨、風の音、霧、そういうモノ、音、それは縄文の時代も今と変わらず人と共にありました。
自然と共生していた縄文人の生活、心象風景などは、あるいはアルセーニエフの「デルスウ・ウザーラ」を読むと幾分理解できるかも知れません。
宮城道雄の曲に多くの日本人が心惹かれたのは縄文の記憶でしょうか、それとも日本列島に住む者に共通して育まれたものなのでしょうか?
これが尺八の曲となると抽象性が高まっているだけに、日本人の太古からの記憶や感性に直接的に響いてくるものは無いように思います。
新邦楽には尺八を使って自然を擬音表現したものが多々有りますが、良いと感じたものは有りません。尺八の楽器としての理解が不十分のような気がします。新邦楽とは少し違いますが、強いて良いものを挙げれば都山流本曲の幾つかでしょうか。
そういった意味でも、私は宮城道雄は天才だと思うのです。
大筋では複数系統のマレー系の人達が北上してきて日本列島に住みつき、約1万5千年くらい前から縄文時代と呼ばれる新石器文化を開いた。
主食はドングリ等の堅果類からとったデンプンですが、これはカロリーのみなので、果物、野草、魚貝、鳥、獣を自然採集して栄養を補った。
4500年ほど前にピークを迎え20~30万人の人口。広葉樹の多かった東日本に人口の95パーセント以上が住んでいた。
その後、気候変動が起こり堅果類の採集が減り人口は7~8万に減る。それが2500年前。
その後、朝鮮半島経由でツングース系の人達が稲作を持って入ってきて弥生文化が始まる。千年以上にわたり数十万から百万もの人口流入が有ったと聞きましたが、数はともかく日本人の血の大部分がこの弥生人です。
北へ押し上げられた縄文人はアイヌとなり、沖縄に手つかずで残った別系統の縄文人は琉球人となった。ここまでは大筋では間違いないと思われます。
さて、私達の中に縄文の名残は残っているのでしょうか?基礎語彙の中には縄文起源のモノも有りそうな気もしますが、それより魚の塩焼きとか干物とかは絶対そうですし、貝の塩汁、生魚の鮓シメ、干し柿、栃やドングリの餅も縄文人の御馳走だったと考えられます。
縄文時代も現代も変わらぬものは日本の自然です。そこに何を感じたかは当然違うでしょうが、瀬音、泉、コオロギ、うぐいす、雪、時雨、風の音、霧、そういうモノ、音、それは縄文の時代も今と変わらず人と共にありました。
自然と共生していた縄文人の生活、心象風景などは、あるいはアルセーニエフの「デルスウ・ウザーラ」を読むと幾分理解できるかも知れません。
宮城道雄の曲に多くの日本人が心惹かれたのは縄文の記憶でしょうか、それとも日本列島に住む者に共通して育まれたものなのでしょうか?
これが尺八の曲となると抽象性が高まっているだけに、日本人の太古からの記憶や感性に直接的に響いてくるものは無いように思います。
新邦楽には尺八を使って自然を擬音表現したものが多々有りますが、良いと感じたものは有りません。尺八の楽器としての理解が不十分のような気がします。新邦楽とは少し違いますが、強いて良いものを挙げれば都山流本曲の幾つかでしょうか。
そういった意味でも、私は宮城道雄は天才だと思うのです。
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