退院後六年
- 2015/06/15
- 09:48
昨日、新潟の墓参りから帰ってきました。
新潟駅の新幹線待合所で乙武洋匡さんに会いました。もちろん面識なんて無いですから、顔が合ったので会釈して、乙武さんも会釈を返し、それだけです。
私は乙武さんに、いや氏の著書「五体不満足」にどのくらい励まされたことか・・・。
六年前の春先、突然にロレツが回らなくなり右手が思うように動かなくなりました。その時は脳梗塞の初期症状だと分りませんでしたが、家内が騒ぎ出し、うるさく病院に行けと言うので、隣の医者の所に行ったところ地域最大の病院に回され入院となりました。
入院した日は普通に体が動き、医者も「3,4日入院して様子を見ましょう」だったんですがねえ・・。
様子が変わったのは入院3日目で、右半身が動かなくなりました。その時に思ったのは、一月後の村岡実さんと行く台湾公演は大丈夫かということでしたから、まだ事態を楽観していました。
幸い入院2週間でリハビリ病院に転院できましたが、そこで「入院三か月」と宣告され流石に凹みました。
入院の三か月間はハッキリ言って楽しかったです。同室の3人は、有名漫画家、特許の弁理士、専業農家の人の良い隠居で、性格の明るい人達ばかりですし、リハビリ専門病院ですから同室の人が、ある日運び出されて、それっきりいなくなるということも無いですから、一種独特の明るい雰囲気が有りました。
長期の入院経験をお持ちの方には分かっていただけるかも知れませんが、どの日もほとんど同じですから、トーマス・マンが「魔の山」で述べている「水平時間」の心境となり、一種の慣れから生じる不安定な「安定感」に包まれました。
それでも今後の生活や仕事のことを思い悩む時間も有り、、その時に元気ずけられたのが乙武さんの「五体不満足」と中村久子の自伝です。お二人とも両手両足が無く、それでも「不便だが不幸ではない」と言い切る乙武さんや、口だけで見事な書を書き、あげく裁縫までしてヘレン・ケラーをして驚嘆せしめた中村久子の自伝を読むと「半身不随くらい大したことない」と思わされました。
もう一つ、若い看護婦さんが言ったこと。「左手で尺八を作れば良いじゃないですか」
「左でなんか作れませんよ」 「でも仕方がないじゃなありませんか。起こったことは変えられないんですよ」 この一言もパッと気が晴れましたねえ。
リハビリのおかげで退院後は尺八の演奏以外はダイタイ旧に復しました。体は不自由になりましたが、慣れるとナレます。久しぶりにお世話になったリハビリ病院に行ったおり、お医者や看護婦さんにその後の生活を聞かれ、「毒蛇や不発弾のゴロゴロしているラオスのジャングルに入って竹を見てきた」と誇張して言うと 「患者の鏡」とまで言われました。
見知らぬ人達も親切にしてくれて非常に快適です。こんなことと知っていたら、もう2,3年早くなっておくんだった、とさえ思う瞬間が有ります。
幸い顔は無事だったので、飲み屋に行っても前と変わらずモテます。
身障者手帳も採らず、長い間「絶好調、何の不便もない」と言い続けていたら一年前に身障者のリハビリサービスも中止になってしまいました。私が身障者だということは見れば分かるでしょう、でも今はそれで良いと思っています。
乙武さんはじめ多くの人から勇気を戴きました。「身障者の覚悟」と向き合わせてくれた看護婦さんのことは心底有難いと思っています。
それと高校の時のクラス会に行くと「おい片輪、なんか食い物をもってきてやろうか」と気楽に言ってくれる友人、「片輪になる前より尺八の品質が上がった」とスタッフ達を褒めて、ついでに私をワライモノにする人達などのおかげもホンのわずか有って私は退院後六年、何とか元気にやっています。
新潟駅の新幹線待合所で乙武洋匡さんに会いました。もちろん面識なんて無いですから、顔が合ったので会釈して、乙武さんも会釈を返し、それだけです。
私は乙武さんに、いや氏の著書「五体不満足」にどのくらい励まされたことか・・・。
六年前の春先、突然にロレツが回らなくなり右手が思うように動かなくなりました。その時は脳梗塞の初期症状だと分りませんでしたが、家内が騒ぎ出し、うるさく病院に行けと言うので、隣の医者の所に行ったところ地域最大の病院に回され入院となりました。
入院した日は普通に体が動き、医者も「3,4日入院して様子を見ましょう」だったんですがねえ・・。
様子が変わったのは入院3日目で、右半身が動かなくなりました。その時に思ったのは、一月後の村岡実さんと行く台湾公演は大丈夫かということでしたから、まだ事態を楽観していました。
幸い入院2週間でリハビリ病院に転院できましたが、そこで「入院三か月」と宣告され流石に凹みました。
入院の三か月間はハッキリ言って楽しかったです。同室の3人は、有名漫画家、特許の弁理士、専業農家の人の良い隠居で、性格の明るい人達ばかりですし、リハビリ専門病院ですから同室の人が、ある日運び出されて、それっきりいなくなるということも無いですから、一種独特の明るい雰囲気が有りました。
長期の入院経験をお持ちの方には分かっていただけるかも知れませんが、どの日もほとんど同じですから、トーマス・マンが「魔の山」で述べている「水平時間」の心境となり、一種の慣れから生じる不安定な「安定感」に包まれました。
それでも今後の生活や仕事のことを思い悩む時間も有り、、その時に元気ずけられたのが乙武さんの「五体不満足」と中村久子の自伝です。お二人とも両手両足が無く、それでも「不便だが不幸ではない」と言い切る乙武さんや、口だけで見事な書を書き、あげく裁縫までしてヘレン・ケラーをして驚嘆せしめた中村久子の自伝を読むと「半身不随くらい大したことない」と思わされました。
もう一つ、若い看護婦さんが言ったこと。「左手で尺八を作れば良いじゃないですか」
「左でなんか作れませんよ」 「でも仕方がないじゃなありませんか。起こったことは変えられないんですよ」 この一言もパッと気が晴れましたねえ。
リハビリのおかげで退院後は尺八の演奏以外はダイタイ旧に復しました。体は不自由になりましたが、慣れるとナレます。久しぶりにお世話になったリハビリ病院に行ったおり、お医者や看護婦さんにその後の生活を聞かれ、「毒蛇や不発弾のゴロゴロしているラオスのジャングルに入って竹を見てきた」と誇張して言うと 「患者の鏡」とまで言われました。
見知らぬ人達も親切にしてくれて非常に快適です。こんなことと知っていたら、もう2,3年早くなっておくんだった、とさえ思う瞬間が有ります。
幸い顔は無事だったので、飲み屋に行っても前と変わらずモテます。
身障者手帳も採らず、長い間「絶好調、何の不便もない」と言い続けていたら一年前に身障者のリハビリサービスも中止になってしまいました。私が身障者だということは見れば分かるでしょう、でも今はそれで良いと思っています。
乙武さんはじめ多くの人から勇気を戴きました。「身障者の覚悟」と向き合わせてくれた看護婦さんのことは心底有難いと思っています。
それと高校の時のクラス会に行くと「おい片輪、なんか食い物をもってきてやろうか」と気楽に言ってくれる友人、「片輪になる前より尺八の品質が上がった」とスタッフ達を褒めて、ついでに私をワライモノにする人達などのおかげもホンのわずか有って私は退院後六年、何とか元気にやっています。
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