竹保流
- 2015/06/27
- 23:17
二代酒井竹保先生に古典本曲を初めてならったのは1970年です。芝の郵便貯金会館に月1度、大阪からいらしゃって弟子をとり、その時に私も応募しました。
坂田誠山先生に不足を感じたわけではないのですが、ともかく尺八がうまくなりたい一心で酒井先生にも入門したのです。こういうのは初心者の段階でやると混乱して、かえって下手になることが多いのですが、その時はそんなことも分かりませんでした。
酒井先生は、その五年後くらいから私に個人的な事を相談をなさるようになりましたが、その中には、いかに口の軽いのがトリエの私でもケッシテ口外出来ない、墓場まで持って行こうと思うことが多々有ります。
暗い内容の事はさしおいて、酒井先生には壮大な夢が有りました。竹保流は俗に「上田は都山の十分の一、竹保はその上田の十分の一」と言われたように、いわゆる弱小流派です。今では大阪、徳島、愛知などに百人程度の流勢ですが、その頃でも三百、おそらく四百人はいなかったと思います。ただ規模の小さに比して意気は盛んでした。
酒井竹保先生の名声が一番上がっていた頃でしたから、弟子には若手の名手が輩出していました。弟子の実力者を集めた「風の会」という流内グループが有りましたが、今振り返っても凄いメンツです。
上村京保、福本卓道、西口、吉武、島田、十川、プロになった人では田嶋直士、関一郎、ライリー・リー、また専業虚無僧の野入虚彗、さらに創造学園大学の学長だった小池大哲もメンバーです。
これだけの優秀な弟子を擁していれば、竹保流の広域拡大に乗り出そうと考えて不思議は有りません。もともと同盟関係にあった上田流や提携していた横山勝也先生の竹心会との関係も良好でしたし、酒井先生の雄図にも現実感が有りました。
「大橋さん、こんど大阪の本部を建て直して七階建てのマンションにしようと思うんです。賃貸で儲けようと言うんじゃありませんよ。銀行借り入れを10年以内に完済して、その後は、尺八を習いたい日本人、外国人に合宿所として無償で提供するつもりです。そうしたら竹保の尺八は日本中、世界中に広まりますよ」
後の横山勝也先生の国際尺八研修館に先んずること10年、計画通りに行っていれば世界レベルの展開が実現したでしょう。思えば、ここが酒井先生の岐路、そして躓きの始まりでした。「資金計画の見通しが甘かった」などとは後付けならいくらでも言える事、成功、失敗、是非成敗は別にして酒井先生は夢に向かって一歩を踏み出したのです。
「唐詩選」を紐解けば、いきなり劈頭の魏徴の詩が目に飛び込んできます。「人生意気に感じては 功名誰かまた論ぜん」。私達の世代は、いや私は共感するところ大です。
私は尺八の製造販売ですが、それを通して酒井先生、横山勝也先生の夢を少しでも継承しようと思います。そう、またヨーロッパ展示会の時期になりました。
もう今は世界が相手。安くて良質な尺八を提供する、そこに向かって努力、精進。
坂田誠山先生に不足を感じたわけではないのですが、ともかく尺八がうまくなりたい一心で酒井先生にも入門したのです。こういうのは初心者の段階でやると混乱して、かえって下手になることが多いのですが、その時はそんなことも分かりませんでした。
酒井先生は、その五年後くらいから私に個人的な事を相談をなさるようになりましたが、その中には、いかに口の軽いのがトリエの私でもケッシテ口外出来ない、墓場まで持って行こうと思うことが多々有ります。
暗い内容の事はさしおいて、酒井先生には壮大な夢が有りました。竹保流は俗に「上田は都山の十分の一、竹保はその上田の十分の一」と言われたように、いわゆる弱小流派です。今では大阪、徳島、愛知などに百人程度の流勢ですが、その頃でも三百、おそらく四百人はいなかったと思います。ただ規模の小さに比して意気は盛んでした。
酒井竹保先生の名声が一番上がっていた頃でしたから、弟子には若手の名手が輩出していました。弟子の実力者を集めた「風の会」という流内グループが有りましたが、今振り返っても凄いメンツです。
上村京保、福本卓道、西口、吉武、島田、十川、プロになった人では田嶋直士、関一郎、ライリー・リー、また専業虚無僧の野入虚彗、さらに創造学園大学の学長だった小池大哲もメンバーです。
これだけの優秀な弟子を擁していれば、竹保流の広域拡大に乗り出そうと考えて不思議は有りません。もともと同盟関係にあった上田流や提携していた横山勝也先生の竹心会との関係も良好でしたし、酒井先生の雄図にも現実感が有りました。
「大橋さん、こんど大阪の本部を建て直して七階建てのマンションにしようと思うんです。賃貸で儲けようと言うんじゃありませんよ。銀行借り入れを10年以内に完済して、その後は、尺八を習いたい日本人、外国人に合宿所として無償で提供するつもりです。そうしたら竹保の尺八は日本中、世界中に広まりますよ」
後の横山勝也先生の国際尺八研修館に先んずること10年、計画通りに行っていれば世界レベルの展開が実現したでしょう。思えば、ここが酒井先生の岐路、そして躓きの始まりでした。「資金計画の見通しが甘かった」などとは後付けならいくらでも言える事、成功、失敗、是非成敗は別にして酒井先生は夢に向かって一歩を踏み出したのです。
「唐詩選」を紐解けば、いきなり劈頭の魏徴の詩が目に飛び込んできます。「人生意気に感じては 功名誰かまた論ぜん」。私達の世代は、いや私は共感するところ大です。
私は尺八の製造販売ですが、それを通して酒井先生、横山勝也先生の夢を少しでも継承しようと思います。そう、またヨーロッパ展示会の時期になりました。
もう今は世界が相手。安くて良質な尺八を提供する、そこに向かって努力、精進。
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