過ぎし昭和
- 2015/07/12
- 23:20
私の邦楽は昭和とともに終わったと今になって思います。演奏会に出たことは、それ以後のほうがずっと多いですし、邦楽界の中に入って活動していたことも平成になっての方が多いです。尺八で稼いだ金たるや比べものになりません。
でも平成になってからは自分で望んでた行った演奏会もあまり無いですし、私の若い頃に憧れた尺八家も、もう大家になってしまいワクワクする試みをやらなくなりました。
青木鈴慕、山本邦山の演奏に平成になってからも感動したことは無いです。勿論他の同世代尺八家についても同様です。もっとも横山勝也の雄図にはずっと敬意を抱いていましたがね・・・。
尺八の仕事が多くなるにつれ演奏会にも義理で出演しなければなりませんし、忘年会、新年会のシーズンは、宴会に次ぐ宴会でそれこそ体が悲鳴をあげていました。なんせ15年以上も毎年の義理掛けが百万円を越えていました。演奏や宴会に呼ばれたらテブラでは行けませんわ。その頃ある衆議院議員と民謡の新年会で同席しましたが、5分くらいで退席して行きました。聞けば、その日は顔を出さねばならない新年会が30近くも有るとのこと、政治家の辛さが理解できました。
私だって尺八の製造販売の本業もしなくてはなりませんし、そうなると演奏会を聴きに行く時間が仮に有っても行く気が薄れていきました。
昭和58年ですね、演奏会の話題作りもあり青木師匠に「都山流本曲を吹いてください」とお願いしましたが、二つ返事で承知していただけました。
「それで何を吹けば良いの?」 「木枯しでどうでしょうか?」 「ウン、あれは良い曲だね、こういうのって自分が吹きたいと思ってもダメなんだ、だから君みたいな人が企画しないと・・・」
こういう試みだって本当は大家もやりたいのです。青木師匠が「木枯し」の演奏後に上機嫌で言ったこと「次は邦山さんと鹿の遠音をやろうと思うんだ、最低15万出してよ、僕が口説くから」 まだまだ面白い事をやりたいという心の弾みに富んでいた頃でした。
それからは皆さん年とともに大家としての立場が「変なこと」を許さなくなっていきましたし、私にしても「変わった企画」を持って行けなくなりました。
それに正直に言うと、どんな名人でもー私が聴いた限りでは、としましょうー60を越えて演奏が良くなった人なんていないですよ。
ここで私の青春が終わったのですね、今は分かります。
でも平成になってからは自分で望んでた行った演奏会もあまり無いですし、私の若い頃に憧れた尺八家も、もう大家になってしまいワクワクする試みをやらなくなりました。
青木鈴慕、山本邦山の演奏に平成になってからも感動したことは無いです。勿論他の同世代尺八家についても同様です。もっとも横山勝也の雄図にはずっと敬意を抱いていましたがね・・・。
尺八の仕事が多くなるにつれ演奏会にも義理で出演しなければなりませんし、忘年会、新年会のシーズンは、宴会に次ぐ宴会でそれこそ体が悲鳴をあげていました。なんせ15年以上も毎年の義理掛けが百万円を越えていました。演奏や宴会に呼ばれたらテブラでは行けませんわ。その頃ある衆議院議員と民謡の新年会で同席しましたが、5分くらいで退席して行きました。聞けば、その日は顔を出さねばならない新年会が30近くも有るとのこと、政治家の辛さが理解できました。
私だって尺八の製造販売の本業もしなくてはなりませんし、そうなると演奏会を聴きに行く時間が仮に有っても行く気が薄れていきました。
昭和58年ですね、演奏会の話題作りもあり青木師匠に「都山流本曲を吹いてください」とお願いしましたが、二つ返事で承知していただけました。
「それで何を吹けば良いの?」 「木枯しでどうでしょうか?」 「ウン、あれは良い曲だね、こういうのって自分が吹きたいと思ってもダメなんだ、だから君みたいな人が企画しないと・・・」
こういう試みだって本当は大家もやりたいのです。青木師匠が「木枯し」の演奏後に上機嫌で言ったこと「次は邦山さんと鹿の遠音をやろうと思うんだ、最低15万出してよ、僕が口説くから」 まだまだ面白い事をやりたいという心の弾みに富んでいた頃でした。
それからは皆さん年とともに大家としての立場が「変なこと」を許さなくなっていきましたし、私にしても「変わった企画」を持って行けなくなりました。
それに正直に言うと、どんな名人でもー私が聴いた限りでは、としましょうー60を越えて演奏が良くなった人なんていないですよ。
ここで私の青春が終わったのですね、今は分かります。
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