見切りどき
- 2015/07/15
- 21:34
私が大学に入学した昭和44年晩秋、御茶ノ水の全電通労働会館で関東学生三曲連盟の「不定期演奏会」という名の定期演奏会が開かれました。
私は1年生でしたが出演しました。曲目は「初雁」で尺八独奏。普通有り得ないのですが、稀に見る天才ということで出演を要請されました。
そんなワケないですね、法政の先輩というのはヘソマガリが揃っていて、「学生の演奏会だろ、上手な奴ばかり出てどうする、ウチは一年生を出す、誰か出ないか?」そういう事で私が出ました。正確には出されました。
正規のプログラムの幕間に「特別出演」というアナウンスで出演しましたが、後でアンケートを読むと、案の定「ナメルナ」とか「練習不足」とか書かれていて、先輩達が大喜びしていました。真っ当な主張が有ったわけでなく、初めから関学三の「不定期演奏会」をコケにする目的ですからタチが悪い。
その顰蹙をかうであろう私の立場に同情して、何くれとなく面倒を見てくれたのが中央大学の香川さん、そう一朝さんでした。右も左も分からずウロウロしていた私は「親切な人だな」と思うばかりでした。
それはともかく、その演奏後です。委員長の佐野さん以下、香川、永瀬、西山の四委員が舞台に並び、「自分達の力不足で一年間何も出来なかった」と懺悔を始めました。
客席にいた青木静夫(鈴慕)先生も意見を述べて緊迫した雰囲気が会場をつつみました。その時、委員の一人、電機大学の永瀬さんが「この会場にいる皆さんのうち、将来邦楽を仕事にしようと思っている人はいますか?」と言い出し、会場にいた五百人の学生のうち誰も手を上げませんでした。
永瀬さんは「そうですか、ではボクは一人になってもやります」と宣言しました。今もプラスチック尺八「悠」で尺八界を盛り立てている永瀬憲治さんだけの事はある立派な姿勢ですが、実はその時の会場にいた学生で、卒業後にプロになった者は一人や二人ではありません。
委員長だった明治の佐野(鈴霏)さん、委員の香川さん、同じく中央大学の橋本(竹詠)さん、東洋大学の郡川さん、電機大学の河野正明さん、青山の三橋(貴風)さん、私。
さて、この人達全部が卒業後にスンナリ尺八のプロになったわけではありません。初めからプロになる前提である芸大とは違うのです。
その芸大ですがね、芸大を出た人達が自分の将来を見切って仕事に就くのが四十位だと言います。芸大を出ても、ほとんどの人が生活出来ないので別の仕事につく、その年齢が四十だと言うのです。この話をしてくれた人はピアニストです。
「40からで就職出来るものなんでしょうか?」私でなくたって、こう思いますよ。何とかなるというよりは、友人、知人、親戚などが何とかなるクチを持ってきてくれ、そこで見切りをつけて就職するケースが多い、そして怖い事に、四十過ぎてしまうと、そういう話が来なくなる、そういう話を最近聞きました。
一般の仕事についてからもお弟子さんに教えたりはしますが、もう本格プロとしての人生は諦める、それが四十だそうです。
尺八の場合、芸大での正式科目になってから三十年、食べられている人は一割、どんなに甘くカウントしても二割はいません。芸なんか誰でも教えられます。なにしろ、これまで芸大で尺八を教えていた人の中には生徒達の誰よりも下手な人がいたのですから。誰でも知っている、この種の事があるのが日本です。
この「食べられている人のノウハウ」が教えられていません。「それは自分で見つけること」では済まないですね、せめてその例だけでも教えなくては・・・。
「芸を磨けば金は後からついて来る」ですと。 サギだあ~。
私は1年生でしたが出演しました。曲目は「初雁」で尺八独奏。普通有り得ないのですが、稀に見る天才ということで出演を要請されました。
そんなワケないですね、法政の先輩というのはヘソマガリが揃っていて、「学生の演奏会だろ、上手な奴ばかり出てどうする、ウチは一年生を出す、誰か出ないか?」そういう事で私が出ました。正確には出されました。
正規のプログラムの幕間に「特別出演」というアナウンスで出演しましたが、後でアンケートを読むと、案の定「ナメルナ」とか「練習不足」とか書かれていて、先輩達が大喜びしていました。真っ当な主張が有ったわけでなく、初めから関学三の「不定期演奏会」をコケにする目的ですからタチが悪い。
その顰蹙をかうであろう私の立場に同情して、何くれとなく面倒を見てくれたのが中央大学の香川さん、そう一朝さんでした。右も左も分からずウロウロしていた私は「親切な人だな」と思うばかりでした。
それはともかく、その演奏後です。委員長の佐野さん以下、香川、永瀬、西山の四委員が舞台に並び、「自分達の力不足で一年間何も出来なかった」と懺悔を始めました。
客席にいた青木静夫(鈴慕)先生も意見を述べて緊迫した雰囲気が会場をつつみました。その時、委員の一人、電機大学の永瀬さんが「この会場にいる皆さんのうち、将来邦楽を仕事にしようと思っている人はいますか?」と言い出し、会場にいた五百人の学生のうち誰も手を上げませんでした。
永瀬さんは「そうですか、ではボクは一人になってもやります」と宣言しました。今もプラスチック尺八「悠」で尺八界を盛り立てている永瀬憲治さんだけの事はある立派な姿勢ですが、実はその時の会場にいた学生で、卒業後にプロになった者は一人や二人ではありません。
委員長だった明治の佐野(鈴霏)さん、委員の香川さん、同じく中央大学の橋本(竹詠)さん、東洋大学の郡川さん、電機大学の河野正明さん、青山の三橋(貴風)さん、私。
さて、この人達全部が卒業後にスンナリ尺八のプロになったわけではありません。初めからプロになる前提である芸大とは違うのです。
その芸大ですがね、芸大を出た人達が自分の将来を見切って仕事に就くのが四十位だと言います。芸大を出ても、ほとんどの人が生活出来ないので別の仕事につく、その年齢が四十だと言うのです。この話をしてくれた人はピアニストです。
「40からで就職出来るものなんでしょうか?」私でなくたって、こう思いますよ。何とかなるというよりは、友人、知人、親戚などが何とかなるクチを持ってきてくれ、そこで見切りをつけて就職するケースが多い、そして怖い事に、四十過ぎてしまうと、そういう話が来なくなる、そういう話を最近聞きました。
一般の仕事についてからもお弟子さんに教えたりはしますが、もう本格プロとしての人生は諦める、それが四十だそうです。
尺八の場合、芸大での正式科目になってから三十年、食べられている人は一割、どんなに甘くカウントしても二割はいません。芸なんか誰でも教えられます。なにしろ、これまで芸大で尺八を教えていた人の中には生徒達の誰よりも下手な人がいたのですから。誰でも知っている、この種の事があるのが日本です。
この「食べられている人のノウハウ」が教えられていません。「それは自分で見つけること」では済まないですね、せめてその例だけでも教えなくては・・・。
「芸を磨けば金は後からついて来る」ですと。 サギだあ~。
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