失った伝説
- 2015/08/07
- 22:24
昔は「誰それの尺八演奏は凄かった」とか言っても、なんせ証拠が無いのですから、批評のしようが有りませんでしたわな。特にこういうものは、過去のものは美化されがちです。
昭和になったころから演奏家の音源が存在するようになり、まあ何とか見当が付くようになりました。
今は復刻版ⅭⅮやユーチューブでも大方の人は聴けるようになり、尺八界も伝説を失ってしまいました。現在の感覚や批評的な聴き方をすれば、昔の人は皆大したことはない、そうなるでしょう。
これが数字や距離で測れる記録競技のようなものだと、また話は簡単です。戦後の日本人を大いに元気ずけたという水泳の古橋広之進の記録、その時点でのオリンピックの記録をも大巾に上回るとは言っても、現代では中学生が出します。でも、だからと言って古橋の偉業が些かも褪せるものではありません。
私の若い頃、宮城道雄の箏に直接ふれた人達がたくさんいて、口々に「宮城先生の音はあれと全然違う、あれが先生の箏だと思われたら、とても残念だ」と言っていました。戦前や昭和20年代の録音技術は到底満足のいくものでは無かったですからね。
私の若い頃のFⅯやレコードは何回か演奏して、良い所だけを繋ぐ方法でしたが、今はコンピューター処理の技術が上がって昔と反対の現象が起きています。「アイツの実際の音と全然違うじゃねえか、それにアイツの音程はあんなに良くねえぞ」。今のⅭⅮなんかは作り物で、後から思うがままに処理できます。それはそれで良いと私は思いますが、私達はそういう機械で完璧に修正された構成済みの音楽だけを聴きたいのではありません。
十数年前に「老人の日」のテレビ番組で島原帆山の演奏が放映されました。その演奏の出来の悪さを批判した人がいましたがね、百に近い老人が尺八の演奏を立派にやりとげるから「老人の日」特別番組になるんであって、その演奏を音楽としてだけ聞けば出来の悪いのは当たり前。半音なんか全然決まりませんでしたものね。でも、さすがに間の採り方の上手さなんかは聴ける人には分かりました。
当然あの演奏を聴いて感動したり勇気付けられた人も多いと思いますよ。
芸術は技術だけではないの、その生きた人間としての精神が人を感動させるのだと思います。だから私は記録に残ったモノが伝えていない、たとえば青木鈴慕や横山勝也、あるいは山口五郎といった人達の偉大さを言葉で伝えたいと思っているのです。
記録された客観情報だけでなしに、昔の感動や懐かしさによって、たっぷり味付けされた主観を語りたいのでございます。
もう語り草の世界になってしまいましたが、もう一度伝説を取り戻したいものです。
昭和になったころから演奏家の音源が存在するようになり、まあ何とか見当が付くようになりました。
今は復刻版ⅭⅮやユーチューブでも大方の人は聴けるようになり、尺八界も伝説を失ってしまいました。現在の感覚や批評的な聴き方をすれば、昔の人は皆大したことはない、そうなるでしょう。
これが数字や距離で測れる記録競技のようなものだと、また話は簡単です。戦後の日本人を大いに元気ずけたという水泳の古橋広之進の記録、その時点でのオリンピックの記録をも大巾に上回るとは言っても、現代では中学生が出します。でも、だからと言って古橋の偉業が些かも褪せるものではありません。
私の若い頃、宮城道雄の箏に直接ふれた人達がたくさんいて、口々に「宮城先生の音はあれと全然違う、あれが先生の箏だと思われたら、とても残念だ」と言っていました。戦前や昭和20年代の録音技術は到底満足のいくものでは無かったですからね。
私の若い頃のFⅯやレコードは何回か演奏して、良い所だけを繋ぐ方法でしたが、今はコンピューター処理の技術が上がって昔と反対の現象が起きています。「アイツの実際の音と全然違うじゃねえか、それにアイツの音程はあんなに良くねえぞ」。今のⅭⅮなんかは作り物で、後から思うがままに処理できます。それはそれで良いと私は思いますが、私達はそういう機械で完璧に修正された構成済みの音楽だけを聴きたいのではありません。
十数年前に「老人の日」のテレビ番組で島原帆山の演奏が放映されました。その演奏の出来の悪さを批判した人がいましたがね、百に近い老人が尺八の演奏を立派にやりとげるから「老人の日」特別番組になるんであって、その演奏を音楽としてだけ聞けば出来の悪いのは当たり前。半音なんか全然決まりませんでしたものね。でも、さすがに間の採り方の上手さなんかは聴ける人には分かりました。
当然あの演奏を聴いて感動したり勇気付けられた人も多いと思いますよ。
芸術は技術だけではないの、その生きた人間としての精神が人を感動させるのだと思います。だから私は記録に残ったモノが伝えていない、たとえば青木鈴慕や横山勝也、あるいは山口五郎といった人達の偉大さを言葉で伝えたいと思っているのです。
記録された客観情報だけでなしに、昔の感動や懐かしさによって、たっぷり味付けされた主観を語りたいのでございます。
もう語り草の世界になってしまいましたが、もう一度伝説を取り戻したいものです。
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