尺八製作の弁証法
- 2015/08/10
- 22:17
私が尺八製作をしようと思ったのは1979年です。前年から竹材のブローカーを始めていて、尺八価格に疑問を持ちました。
良い竹材は昔も今も手に入れずらい、今は単に売れないので掘る人がいなくなったからですが、昔は尺八用の竹の需要が多く、新たに開業しようと思っても材料がネックになっていました。
その一方で売れっ子製管師は実際に使用する竹の五倍から十倍の数を毎年買い込んでいるという現実が有りました。これは売れっ子製管師は資金が豊富だったという事と、良い竹を掘る人を確保したい必要が有ってそうなったのです。数多く買って、その中から選別して使うのですが、まだまだ良い竹は残っていました。
それなら話は簡単。売れっ子の余分の物を買って、まだ良い竹材入手のルートを持っていない新興製管師に売れば良いのです。
こういうビズネスをしていて横山勝也先生から「私のところにも頼むよ」と言われて高円寺に有ったマンションに50本ほど持って行きました。
大橋 「何の為にいるんです?蘭畝先生のところに有るじゃありませんか」
横山 「尺八が今みたいに高くなっちゃたら新しく始める人がいなくなると思うんですよ。せめてね、竹材だけでも安く確保しておきたいと思ったんですよ」
それから二人でアレコレ話し、勢いで私が安く作ることになりました。
そこでマズは業界の分析です。疑問に一つずつ答えを見つけて行きます。最初は独断偏見でかまいません。新たなビジネスのスタートとはそういうモノだす。問題点を探す事が大切で、答えの方はやりながら修正すれば良いだけのこっちゃ・・・。
まず素朴な疑問。どうして高い。どうしてヘタな人でも高い。どうして民謡や琴古では素人レベルの尺八が流通しているのだろうか、別に安くもないのに・・・。
こういった点のカラクリは、尺八界は構造が簡単で、底の浅い世界だけにすぐ分かりました。そこでスタートを切ることにしましたが、問題は作り手です。できれば製管の世界の常識から全く自由な人が良い。すると大学の後輩達が言い出しました。
「それだったら専修大の三塚が良いですよ、凄いヤツで来年卒業なのですが、就職しないみたいですし一度会ってみたらどうですか」
会ってみて同じ様な疑問を持っていることが分かりました。「大橋さんはNやK、Hといった人の尺八が良いと思いますか?ボクはそう思いません。あの人達の尺八は姿形は綺麗ですが楽器として良いとは思いません。工芸品としては優れていますが、尺八はその前に楽器なんです」 三塚さんは若い時から自分の主張を明確に論理的に言える人で私は圧倒されました。
「三塚さん、私はアナタの言う事は良く分かる、だけどその前にもっと酷くて、そのくせ高い尺八が有るでしょう、私は、そこを何とかしたいんですよ」
結局そういう経緯で一緒にやることになりました。
私はN、H等の竹仙系の人達に対しては今でも尊敬心を抱いています。何年も修行して筋金入りの技術を身に付けた人達です。永廣真山さんで12年、平均5,6年。遅くスタートした小林一城さんは10年下積み修行をしています。「貴方ほどの技術だったら本当は五年くらいで、もう永廣さんに習う事なんて無かったでしょうに、早く独立しようと思いませんでしたか?」と私が聞くと「初めから10年下職をする約束でしたし、まだ習うことも多いですよ」という返事です。人に信頼され、私も尊敬する小林さんだけのことは有る、見上げた見識です。
この愚直なまでの誠意、こういう職人魂、それが製管の「正」です。それに対して、その問題点を見つけ、下積み無しで自分で製管法を確立する私や三塚さんが「反」。林鈴麟、木村筦山なども、これに該当します。師匠のもとで長年修行するから非合理で非科学的な事も速やかにクリア出来ない。師匠の時代の価値観に縛られ、時代のニーズを常に後追いすることになる。これが「反」のイデオロギー。
そして「合」はいまだ出ていません。
明治中期に人気の有った硯友社文学、その後、それに反して自然主義文学が出てきました。しかし、自然主義もそのツマラナサが飽きられて次が出てきました。しかし、耽美派などの反自然主義も前の硯友社に戻ったわけではなく、自然主義の要素も濃厚に持った新しい形態を構築しました。これが正・反・合と螺旋上昇する弁証法ですが、「反」は私達が出しました。次は尺八で「合」が出る時代、楽しみですが、まだその兆候すら有りません。
良い竹材は昔も今も手に入れずらい、今は単に売れないので掘る人がいなくなったからですが、昔は尺八用の竹の需要が多く、新たに開業しようと思っても材料がネックになっていました。
その一方で売れっ子製管師は実際に使用する竹の五倍から十倍の数を毎年買い込んでいるという現実が有りました。これは売れっ子製管師は資金が豊富だったという事と、良い竹を掘る人を確保したい必要が有ってそうなったのです。数多く買って、その中から選別して使うのですが、まだまだ良い竹は残っていました。
それなら話は簡単。売れっ子の余分の物を買って、まだ良い竹材入手のルートを持っていない新興製管師に売れば良いのです。
こういうビズネスをしていて横山勝也先生から「私のところにも頼むよ」と言われて高円寺に有ったマンションに50本ほど持って行きました。
大橋 「何の為にいるんです?蘭畝先生のところに有るじゃありませんか」
横山 「尺八が今みたいに高くなっちゃたら新しく始める人がいなくなると思うんですよ。せめてね、竹材だけでも安く確保しておきたいと思ったんですよ」
それから二人でアレコレ話し、勢いで私が安く作ることになりました。
そこでマズは業界の分析です。疑問に一つずつ答えを見つけて行きます。最初は独断偏見でかまいません。新たなビジネスのスタートとはそういうモノだす。問題点を探す事が大切で、答えの方はやりながら修正すれば良いだけのこっちゃ・・・。
まず素朴な疑問。どうして高い。どうしてヘタな人でも高い。どうして民謡や琴古では素人レベルの尺八が流通しているのだろうか、別に安くもないのに・・・。
こういった点のカラクリは、尺八界は構造が簡単で、底の浅い世界だけにすぐ分かりました。そこでスタートを切ることにしましたが、問題は作り手です。できれば製管の世界の常識から全く自由な人が良い。すると大学の後輩達が言い出しました。
「それだったら専修大の三塚が良いですよ、凄いヤツで来年卒業なのですが、就職しないみたいですし一度会ってみたらどうですか」
会ってみて同じ様な疑問を持っていることが分かりました。「大橋さんはNやK、Hといった人の尺八が良いと思いますか?ボクはそう思いません。あの人達の尺八は姿形は綺麗ですが楽器として良いとは思いません。工芸品としては優れていますが、尺八はその前に楽器なんです」 三塚さんは若い時から自分の主張を明確に論理的に言える人で私は圧倒されました。
「三塚さん、私はアナタの言う事は良く分かる、だけどその前にもっと酷くて、そのくせ高い尺八が有るでしょう、私は、そこを何とかしたいんですよ」
結局そういう経緯で一緒にやることになりました。
私はN、H等の竹仙系の人達に対しては今でも尊敬心を抱いています。何年も修行して筋金入りの技術を身に付けた人達です。永廣真山さんで12年、平均5,6年。遅くスタートした小林一城さんは10年下積み修行をしています。「貴方ほどの技術だったら本当は五年くらいで、もう永廣さんに習う事なんて無かったでしょうに、早く独立しようと思いませんでしたか?」と私が聞くと「初めから10年下職をする約束でしたし、まだ習うことも多いですよ」という返事です。人に信頼され、私も尊敬する小林さんだけのことは有る、見上げた見識です。
この愚直なまでの誠意、こういう職人魂、それが製管の「正」です。それに対して、その問題点を見つけ、下積み無しで自分で製管法を確立する私や三塚さんが「反」。林鈴麟、木村筦山なども、これに該当します。師匠のもとで長年修行するから非合理で非科学的な事も速やかにクリア出来ない。師匠の時代の価値観に縛られ、時代のニーズを常に後追いすることになる。これが「反」のイデオロギー。
そして「合」はいまだ出ていません。
明治中期に人気の有った硯友社文学、その後、それに反して自然主義文学が出てきました。しかし、自然主義もそのツマラナサが飽きられて次が出てきました。しかし、耽美派などの反自然主義も前の硯友社に戻ったわけではなく、自然主義の要素も濃厚に持った新しい形態を構築しました。これが正・反・合と螺旋上昇する弁証法ですが、「反」は私達が出しました。次は尺八で「合」が出る時代、楽しみですが、まだその兆候すら有りません。
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