お客は知恵袋 其3(蕎麦)
- 2015/08/22
- 13:49
蕎麦屋はふるいませんなあ。このところ人気の盛り返したウドンやラーメンのはるか後塵を拝しています。私らの子供の頃は東京ではラーメン屋より蕎麦屋の方が多かったもんです。それが今じゃね。
アタリメエだ。程度の低い蕎麦を出す所が多すぎたって。何しろ日本蕎麦とか言っといて、何でい、そば粉の入ったウドンじゃねえか。
ラーメン屋は開業一年以内に30~40パーセントの店が潰れています。5年だと70パーセントが廃業しているシビアな世界です。それだけ競争が激しいし、新たにチャレンジする人も多いから、常に新しい試みや研究が盛んです。蕎麦屋って新規開店も少ないし、行列を作っている店もほとんど無いですね。形態も半世紀前と一緒。でも私とかファンも多いんですよ。
その数少ない行列店として浅草雷門の並木藪が有りますね。立川で蕎麦屋を営んでいるNさんは米谷流の尺八名取りです。尺八もタクサン買っていただきましたし、また古い尺八の修理も多数やらせていただきました。このNさんが修行した店が並木藪です。
並木藪の蕎麦は量が少ない。それとツユが辛い。江戸の名残りです。
昔の蕎麦は一人前の量が少なかった。だから夏目漱石の「坊ちゃん」で、小柄(記述が一か所出てきますよ)な坊ちゃんが蕎麦屋に入って一度に四人前食べたり、田山花袋の小説でも、どう読んでも身体頑健とは思えない田舎教師が三人前を平らげたりするわけです。並木藪の蕎麦だったら、自慢してるわけじゃないが、今でも私は三人前食えますよ。
またツユが辛いから、ほんの少し蕎麦に付けるだけで良いし、蕎麦の香も楽しめる。落語で蕎麦にツユをタップリつけるのをヤボだとカラカッテいますが、今はツユを多く付けないと食えない蕎麦ばかりじゃん。
漱石の「吾輩は猫である」に、日頃イイカゲンなことばかり言い散らしている迷亭が、真夏に蕎麦の講釈をたれながら、もりそばを二枚食べるとこが有りますが、こういうハンパ知識がカラかいの対象であると同時に、ウンチク披露の楽しみでもあったのです。
保存がきかなかった昔は、「真夏の蕎麦は猫も跨いで通る」と言われていました。たとえマズイ蕎麦でもウンチクの味付けで喰えるもんですわ。
でも流石は並木藪ですな、Nさんの話しだと「夏の時期はタスマニア産の蕎麦粉でうってます。私の店もタスマニアです。」との事。日本と夏冬が逆になるタスマニアの蕎麦粉は品質という点でも申し分がないそうです。
「流石」と言ったのは並木藪の自らの店に対する絶対の自信です。蕎麦、寿司、ウナギなんかは通あるいは半可通が理屈を楽しむことも多い世界です。「タスマニアだと、国産じゃねえのかよ」と言われるのを怖れてハンパな店だったら、こうもアッケラカンと公表できませんわ。
並木藪がやれば、通も半可通も、全くウンチクに興味に無い人も受け入れます。それにNさんはソバツユの作り方も簡単に教えてくれました。「その通りに出来るもんか」という矜持を感じます。
つい最近まで、ウナギの養殖か天然かを問題にする人や松茸の産地にこだわる人がいたのです。笑い話ですが公海上で採ったマグロの産地表示にもこだわる人すらいます。単に採った船の船籍ですけどね。蕎麦もウンチクの多い食べ物で、だから素人で蕎麦打ちする人も多いのです。形態が三世紀前に劇的変化を遂げてからは、外面的には変わりようが無い分、内面深化に進みましたが、イイカゲンの放置で人気を落としました。(どこまで蕎麦の話しだっけ、尺八とゴッチャになりました)
本当に分かっているかなんて、実はどうでも良いことでござんす。こういうモノはウンチクを楽しめないと面白くないですよ。日本産が上質だと思っていれば「日本産」の表示で味も違いますって。
それは尺八も同じこと。幸いにして尺八の場合、まだまだカルチャー講座の方でジイサン達がワイワイやってますから希望が持てます。
楽器や音楽は芸術であるとともに文化ですよ、大いにウンチクも楽しみましょう。
アタリメエだ。程度の低い蕎麦を出す所が多すぎたって。何しろ日本蕎麦とか言っといて、何でい、そば粉の入ったウドンじゃねえか。
ラーメン屋は開業一年以内に30~40パーセントの店が潰れています。5年だと70パーセントが廃業しているシビアな世界です。それだけ競争が激しいし、新たにチャレンジする人も多いから、常に新しい試みや研究が盛んです。蕎麦屋って新規開店も少ないし、行列を作っている店もほとんど無いですね。形態も半世紀前と一緒。でも私とかファンも多いんですよ。
その数少ない行列店として浅草雷門の並木藪が有りますね。立川で蕎麦屋を営んでいるNさんは米谷流の尺八名取りです。尺八もタクサン買っていただきましたし、また古い尺八の修理も多数やらせていただきました。このNさんが修行した店が並木藪です。
並木藪の蕎麦は量が少ない。それとツユが辛い。江戸の名残りです。
昔の蕎麦は一人前の量が少なかった。だから夏目漱石の「坊ちゃん」で、小柄(記述が一か所出てきますよ)な坊ちゃんが蕎麦屋に入って一度に四人前食べたり、田山花袋の小説でも、どう読んでも身体頑健とは思えない田舎教師が三人前を平らげたりするわけです。並木藪の蕎麦だったら、自慢してるわけじゃないが、今でも私は三人前食えますよ。
またツユが辛いから、ほんの少し蕎麦に付けるだけで良いし、蕎麦の香も楽しめる。落語で蕎麦にツユをタップリつけるのをヤボだとカラカッテいますが、今はツユを多く付けないと食えない蕎麦ばかりじゃん。
漱石の「吾輩は猫である」に、日頃イイカゲンなことばかり言い散らしている迷亭が、真夏に蕎麦の講釈をたれながら、もりそばを二枚食べるとこが有りますが、こういうハンパ知識がカラかいの対象であると同時に、ウンチク披露の楽しみでもあったのです。
保存がきかなかった昔は、「真夏の蕎麦は猫も跨いで通る」と言われていました。たとえマズイ蕎麦でもウンチクの味付けで喰えるもんですわ。
でも流石は並木藪ですな、Nさんの話しだと「夏の時期はタスマニア産の蕎麦粉でうってます。私の店もタスマニアです。」との事。日本と夏冬が逆になるタスマニアの蕎麦粉は品質という点でも申し分がないそうです。
「流石」と言ったのは並木藪の自らの店に対する絶対の自信です。蕎麦、寿司、ウナギなんかは通あるいは半可通が理屈を楽しむことも多い世界です。「タスマニアだと、国産じゃねえのかよ」と言われるのを怖れてハンパな店だったら、こうもアッケラカンと公表できませんわ。
並木藪がやれば、通も半可通も、全くウンチクに興味に無い人も受け入れます。それにNさんはソバツユの作り方も簡単に教えてくれました。「その通りに出来るもんか」という矜持を感じます。
つい最近まで、ウナギの養殖か天然かを問題にする人や松茸の産地にこだわる人がいたのです。笑い話ですが公海上で採ったマグロの産地表示にもこだわる人すらいます。単に採った船の船籍ですけどね。蕎麦もウンチクの多い食べ物で、だから素人で蕎麦打ちする人も多いのです。形態が三世紀前に劇的変化を遂げてからは、外面的には変わりようが無い分、内面深化に進みましたが、イイカゲンの放置で人気を落としました。(どこまで蕎麦の話しだっけ、尺八とゴッチャになりました)
本当に分かっているかなんて、実はどうでも良いことでござんす。こういうモノはウンチクを楽しめないと面白くないですよ。日本産が上質だと思っていれば「日本産」の表示で味も違いますって。
それは尺八も同じこと。幸いにして尺八の場合、まだまだカルチャー講座の方でジイサン達がワイワイやってますから希望が持てます。
楽器や音楽は芸術であるとともに文化ですよ、大いにウンチクも楽しみましょう。
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