資料の行方
- 2015/08/27
- 21:32
私が死んだら借りているアパートの部屋いっぱいに有る尺八の資料はどうなるんでしょう。「邦楽ジャーナル」は創刊準備号から全部、「季刊邦楽」もダイタイ揃っていて、これは自分で買ったと言うより、広告を出していますので出版元が送ってきたものです。
その他の厖大な資料、それらは「もう自分も年だから貰ってくれないか、自分が死んだらゴミに出されてしまう。もし貴方が何かの資料として使ってくれたら嬉しい」と言われて、たくさんの人から戴いたものです。
どういう資料にしろ集めた人の思いがこもっています。ぞんざいには扱えません。
正直言って、「一次資料」以外はあまり資料としての価値は有りません。鎌倉にお住まいだった出川一雄先生から戴いたのは「古事類苑」。出川先生は法学の著書も有る法曹界の泰斗だけあって、キチンと索引が打ってあり、戴いた時は「飛び上がって」では無いまでも大喜びしました。尺八の歴史では第一級資料であり、しかも根本史料です。
兵庫県加古郡の西川伴山先生からは昭和初期から昭和30年代までの都山流刊行物のほとんどを。岡山県玉野市の小橋晃一先生からは戦前の尺八関係の広告物を多量に戴きました。こういう「一次資料」は嬉しいですねえ。中には島原帆山先生から「公表は控えてくれないか」と言われた、明治に遡るモノも入っていました。私は、どんな事にしろ、もう時効だし別に構わないと思いますがねえ・・・。
それ以外の資料は尺八吹きが長年の自分の経験を記録したものが多いですね。大学ノートに何冊も「製管記録」を書いていた素人製管師さんとか、尺八の修行始めからの事が克明に記してある自伝風のものとかで、はっきり申して資料としては役に立ちません。主観が強くて、どれも個人の経験談の上に行くものでは有りません。
私は尺八研究家では無いので、その種の裏どりが必要な資料は扱うだけの能力が無いのです。
かつての尺八界には、尺八が好きで好きで仕方のないオタクオヤジがタクサンいました。一家言を持っていて私らプロをモノともしない意気をお持ちでした。ほとんどの人は、サンプル数の欠如、実践で証明されていない思い込み、科学性無視のタワゴトで「アホラシ」でしたが、そういう熱い気持ちのファンがいてこその尺八界です。私は、そういう人達が大好きでした。
専門家は言うまでも無く、学者や大学教授の中には、自分の専門を離れるとオウオウにして突拍子もないことを言い出す人がいることは大学時代に経験済みですが、昔はオタクのチェック機能が尺八でも働いていたかと言うと、それは違います。かつての日本人には純情な人が多く、オタクのほとんどは専門家や学者の言うことを金科玉条にして信じていました。
でもオタクが10人いたならば、うち1人はプロすらタジログ本物。オタクが仮に一万人いる世界ならプロや学者は常時千人の目を意識しなければならず、それだけの緊張感にさらされます。
特に膨大な一次資料を所有する人には教わる事が多かったのです。その方達が熱心に収集、整理した資料は今後どうなちゃうんですかね。虚無僧研究会の小菅大徹先生が預かってくれるので、持ち込む人もいるでしょうが、それでもなお多くの資料は破棄されるんでしょうね。
何しろ今はオタクは少なくなり、専門家と言ってもプロ演奏家とプロ製管師の書いたモノ、言った事にしか興味が持たれない時代です。あきらかに今は学者の言うことに関心が持たれないと言うか、そもそも発表する場が無いのが実情です。
趣味の世界の健全性の為には、学者、プロ、オタク、全て必要です。私は何度でも言います。カバーする範囲が違うのですもの。
その他の厖大な資料、それらは「もう自分も年だから貰ってくれないか、自分が死んだらゴミに出されてしまう。もし貴方が何かの資料として使ってくれたら嬉しい」と言われて、たくさんの人から戴いたものです。
どういう資料にしろ集めた人の思いがこもっています。ぞんざいには扱えません。
正直言って、「一次資料」以外はあまり資料としての価値は有りません。鎌倉にお住まいだった出川一雄先生から戴いたのは「古事類苑」。出川先生は法学の著書も有る法曹界の泰斗だけあって、キチンと索引が打ってあり、戴いた時は「飛び上がって」では無いまでも大喜びしました。尺八の歴史では第一級資料であり、しかも根本史料です。
兵庫県加古郡の西川伴山先生からは昭和初期から昭和30年代までの都山流刊行物のほとんどを。岡山県玉野市の小橋晃一先生からは戦前の尺八関係の広告物を多量に戴きました。こういう「一次資料」は嬉しいですねえ。中には島原帆山先生から「公表は控えてくれないか」と言われた、明治に遡るモノも入っていました。私は、どんな事にしろ、もう時効だし別に構わないと思いますがねえ・・・。
それ以外の資料は尺八吹きが長年の自分の経験を記録したものが多いですね。大学ノートに何冊も「製管記録」を書いていた素人製管師さんとか、尺八の修行始めからの事が克明に記してある自伝風のものとかで、はっきり申して資料としては役に立ちません。主観が強くて、どれも個人の経験談の上に行くものでは有りません。
私は尺八研究家では無いので、その種の裏どりが必要な資料は扱うだけの能力が無いのです。
かつての尺八界には、尺八が好きで好きで仕方のないオタクオヤジがタクサンいました。一家言を持っていて私らプロをモノともしない意気をお持ちでした。ほとんどの人は、サンプル数の欠如、実践で証明されていない思い込み、科学性無視のタワゴトで「アホラシ」でしたが、そういう熱い気持ちのファンがいてこその尺八界です。私は、そういう人達が大好きでした。
専門家は言うまでも無く、学者や大学教授の中には、自分の専門を離れるとオウオウにして突拍子もないことを言い出す人がいることは大学時代に経験済みですが、昔はオタクのチェック機能が尺八でも働いていたかと言うと、それは違います。かつての日本人には純情な人が多く、オタクのほとんどは専門家や学者の言うことを金科玉条にして信じていました。
でもオタクが10人いたならば、うち1人はプロすらタジログ本物。オタクが仮に一万人いる世界ならプロや学者は常時千人の目を意識しなければならず、それだけの緊張感にさらされます。
特に膨大な一次資料を所有する人には教わる事が多かったのです。その方達が熱心に収集、整理した資料は今後どうなちゃうんですかね。虚無僧研究会の小菅大徹先生が預かってくれるので、持ち込む人もいるでしょうが、それでもなお多くの資料は破棄されるんでしょうね。
何しろ今はオタクは少なくなり、専門家と言ってもプロ演奏家とプロ製管師の書いたモノ、言った事にしか興味が持たれない時代です。あきらかに今は学者の言うことに関心が持たれないと言うか、そもそも発表する場が無いのが実情です。
趣味の世界の健全性の為には、学者、プロ、オタク、全て必要です。私は何度でも言います。カバーする範囲が違うのですもの。
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