美と醜
- 2015/08/31
- 22:08
私はあまり物に対する執着が無く、後になって買っておけば良かったと後悔したことは、ほとんど有りません。ただ、良いと思えば尺八に関しては買います。資料ですからね、必要経費です。そして徹底的に調べます。若い時は分解しましたが40過ぎては壊しません。理由はお金が勿体ないから。要するに調べた後で売りたいんです。
いささか脱線しました。その私が、購入しなかったことを強烈に後悔しているモノが有ります。35年前にシンガポールの骨董屋で見たビルマの仏像です。5万円と言われたので買えない値段ではなかったのですが、値引き交渉がうまく行かず買いそびれました。
全体が安っぽい金色をしていて、手を合わせて目も歯もむき出した異様な仏、仏と言うより「邪教に迷う愚昧な人」という感じの、美しいと言うより醜いと表現すべき逸品でした。以来後悔しています。上座部仏教の仏像は何体も所有していますが、あれほどの名品には、その後もお目にかかっていません。
美と醜の境界は紙一重、いや混沌としていて分からないと言うのが正しいでしょう。仏像鑑賞が趣味の方は多いと思いますが、その仏像がですよ、もし作られた当時のまま、つまり金ピカや極彩色だったらどうですか、やはり良いと思いますか?
仏像の表面の金や塗料が剥げ落ちた当時は、みっともないと思ったでしょうが、そのままにしたのはお金が無かったから。単純な理由です。今となって、お金は出来ても今さら金をかぶせられませんや。新しい美が出来てしまったのですから。レンブラントの「夜警」を今さら煤払いして「白昼の行進」に戻せないのと一緒ですわ。
円空仏なんか見て衝撃を受けますが、美とか醜を越えた美ですよね。トーマス・マンの「魔の山」に、中世のキリスト像を見て「こんな醜いモノが、こんなに美しいとは」と感嘆する部分が有りますが、私達が、歪んだ織部の茶碗や土そのものの備前の壺を見て、その美しさに息を呑むのと似ていますね。
尺八でそういう品を求めるとすれば、友正岳童です。最初の印象は「こいつヘタだなあ」です。歪んだ松の根みたいな尺八です。しかし目が慣れてくると底無しの魅力、いわゆる「破形の美」が見えてきます。おそらくは、モノスゴイ技量が有って意図的に形を壊しているんではないと思います。たぶん技術的には下手なんだろうと思いますが、その内面の美意識が岳童管の美を創りだしたのでしょう。プロの画家さんに「ゴーギャンは技術的には下手」と聞いたことが有ります。そういう「技術でなく美を表現できる」タイプの尺八は岳童管以外には知りません。私をはじめ製管師の多くは竹仙や真山の確立した尺八の造形美を受け入れています。岳童はアタマから、そういう美意識で作っていません。琴古の製管師の意識する造詣に似ていますが、握り寿司と押し寿司ぐらい違います。
岳童の弟子の今井さん、通称「マル幸」はパッと見は似ていますが、私の印象では本質は似ていません。
美であって醜、下手でウマい、雑で緻密、素朴で華麗、骨太で豪快、それは岳童だけです。ただ楽器としては感心したことは、私は有りません。
いささか脱線しました。その私が、購入しなかったことを強烈に後悔しているモノが有ります。35年前にシンガポールの骨董屋で見たビルマの仏像です。5万円と言われたので買えない値段ではなかったのですが、値引き交渉がうまく行かず買いそびれました。
全体が安っぽい金色をしていて、手を合わせて目も歯もむき出した異様な仏、仏と言うより「邪教に迷う愚昧な人」という感じの、美しいと言うより醜いと表現すべき逸品でした。以来後悔しています。上座部仏教の仏像は何体も所有していますが、あれほどの名品には、その後もお目にかかっていません。
美と醜の境界は紙一重、いや混沌としていて分からないと言うのが正しいでしょう。仏像鑑賞が趣味の方は多いと思いますが、その仏像がですよ、もし作られた当時のまま、つまり金ピカや極彩色だったらどうですか、やはり良いと思いますか?
仏像の表面の金や塗料が剥げ落ちた当時は、みっともないと思ったでしょうが、そのままにしたのはお金が無かったから。単純な理由です。今となって、お金は出来ても今さら金をかぶせられませんや。新しい美が出来てしまったのですから。レンブラントの「夜警」を今さら煤払いして「白昼の行進」に戻せないのと一緒ですわ。
円空仏なんか見て衝撃を受けますが、美とか醜を越えた美ですよね。トーマス・マンの「魔の山」に、中世のキリスト像を見て「こんな醜いモノが、こんなに美しいとは」と感嘆する部分が有りますが、私達が、歪んだ織部の茶碗や土そのものの備前の壺を見て、その美しさに息を呑むのと似ていますね。
尺八でそういう品を求めるとすれば、友正岳童です。最初の印象は「こいつヘタだなあ」です。歪んだ松の根みたいな尺八です。しかし目が慣れてくると底無しの魅力、いわゆる「破形の美」が見えてきます。おそらくは、モノスゴイ技量が有って意図的に形を壊しているんではないと思います。たぶん技術的には下手なんだろうと思いますが、その内面の美意識が岳童管の美を創りだしたのでしょう。プロの画家さんに「ゴーギャンは技術的には下手」と聞いたことが有ります。そういう「技術でなく美を表現できる」タイプの尺八は岳童管以外には知りません。私をはじめ製管師の多くは竹仙や真山の確立した尺八の造形美を受け入れています。岳童はアタマから、そういう美意識で作っていません。琴古の製管師の意識する造詣に似ていますが、握り寿司と押し寿司ぐらい違います。
岳童の弟子の今井さん、通称「マル幸」はパッと見は似ていますが、私の印象では本質は似ていません。
美であって醜、下手でウマい、雑で緻密、素朴で華麗、骨太で豪快、それは岳童だけです。ただ楽器としては感心したことは、私は有りません。
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