青木鈴慕先生が、音は良く出ているのに演奏の下手な弟子に注意していました。「カラオケと同じなんだよ」。
私には先生のおっしゃる事も弟子の戸惑いも二つとも良く分かります。
青木先生は少年時代から古曲を日常的に聴いて育ちました。ですから曲が心に入っています。ですが多くの弟子にとっては、三曲や古典本曲は尺八を始めるまで聞いた事の無い音楽なんですよ。
カラオケではアタマに入っている歌を自分の耳で聞きながら歌いますね、譜面を見て歌いやしませんわな。でも古曲は多くの尺八吹きにとってアタマにまるで入っていないで譜面で吹く対象なのです。ですから演奏もワンパターン、耳で調整して吹いていないので音程も外れるし、目で演奏しているので時に行間違いもします。ノリを感じるのは手事だけ。さすがに手事は曲の個性を感じますからね・・・。
その古曲を良いと感じるのが「修行」だと言うから尺八はここまで落ちぶれたのです。アンケートをとったわけではありませんが、尺八を現に吹いている人の七割は「古曲はツマラナイ」と感じています。長年の「修行」のおかげで「苦にならなく」なっただけです。「古典は素晴らしい」と言うオヒト、まさか我々プロに言ってんじゃないですよね、それを「釈迦に説法」と言うんです。尺八に惚れ込み、古典にウットリするのは我々であって、新しく始める人ではありません。
若い方の中にも「三曲が面白い」と言う人もいます。欧米人は古典本曲が大好きで、演奏会で古典をやると喜ぶと言います。それはとても素晴らしいことだと思います。でも「古典はツマラナイ」と言って尺八を吹いていることも素晴らしいと思います。かつて尺八家の約半数を占めた民謡尺八の人はアカラサマニ失礼な事は言わないだけで、心の中では「古典は欠伸がでる」と大半の人が思っていました。私が雑談で感じた限りではですよ。
ですから、これはある水準以上の人のケースだとしましょう、音は圧倒的に古典系の尺八吹きの方が出ていましたね。細かい指使い、テクニックも古典の人が上です。
ただし、当時、聞いている人はと言えば、圧倒的多数の日本人は「民謡尺八のほうが聴いていて面白い」と感じていました。なにより民謡尺八の人は音程が良かった。当たり前です、アタマに曲が入っていて尺八は復元しているだけですもの。カラオケで歌ってんのと同じだ・・・。
つまりは、何でもオーケーが一番。好みは尺八を吹いている間にドンドン変わりますし、ドンドン何でも面白くなります。変な強制や洗脳さえ無ければ。尺八は「良いな、やってみたいな」が出発点。誰でもそうだったでしょう。
こういう事を今や口で言わなくても良くなった。自由勝手に皆がやるようになりました。カラオケみたいに尺八をマズは楽しむ所が出発点。ようやく原点に戻りました。
スポンサーサイト