乞食
- 2015/10/01
- 22:27
今の日本に乞食っているんでしょうか?私は行動半径が狭いせいか、もう10年以上見た事が有りません。新宿の青梅街道ぞいのガード下で正座して合掌していたバアサン乞食を見たのが最後です。
今のホームレスやルンペンは、それなりに少しは働いており乞食とは違います。乞食は哀れみ、同情を商売道具にしているわけです。私の子供の頃はいくらでもいました。でも流石に「右や左の旦那様、哀れな乞食にお恵みを」という定番セリフは聞いたことが有りません。豊かになった昭和40年くらいから乞食は見る事がなくなりました。
豊かな国でも日本以外では乞食はショッチュウ見ます。アメリカでもチョット小マシなレストランの出入り口には紙コップを持ったアル中ジイサンがいるもんですし、ヨーロッパでも、たとえばフランクフルトの駅前の飲食街にはインド人移民が何人もシートをしいて物乞いをしています。
豊かな国では無いが中国は、ある程度本気で共産主義をやっていた頃はいなかった乞食も今では多いです。人口で言ったら富裕層と同じくらいいるじゃねえの。中国っていえば、昔の科挙は賤民には受験資格が有りませんでしたが、乞食には有りました。「富貴天にあり」ですから、乞食は金が無い状態であって卑しいというのとは違うと考えていたみたいですね。そのせいか今も日本の乞食みたいに卑屈ではないですね。
インドなどの貧しい国では、乞食はほとんど産業ですね。西アジアのバクシーシと言うのですか、もう貰って当然という感じです。でも私が見た中ではインドの乞食が一番芸域が広いですな。カタワやライ病で崩れた体を資本にしているのは気持ちが圧迫されてイヤですが、子供の乞食の芸達者ぶりにはホント感心しますわ。アッパレな芸人です。
それでも乞食と旅芸人、あるいは托鉢との差は芸の有る無しなのでしょうか?
虚無僧が何処から出てきたのかは諸説有りますな。
まず有力視されるボロボロは芸なんでしょうかね。4,5人でいて高下駄を履き、子供を抱いた女と笠の下に巻物をくくりつけた男がいるのが定型ですが、尺八は持っていません。
16世紀はじめの土佐光信の「三十二番職人歌合」には虚妄僧として絵が残っていますが、長い尺八を吹いていますし、同じく「七十一番職人歌合」には琵琶法師が尺八を持っていて、ここらあたりは芸人と分かります。
17世紀後半には虚無僧としての集団を形成しますが、こうなってくると近い職業形態はヤクザです。
私は乞食を見たら、とりあえず幾らかでも出します。アンデルセンの「マッチ売りの少女」みたいに本当に困っているかも知れないからです。そう想像すると無視できないのです。西アジアやインドみたく普通の風景になってしまえば何てことないですが、韓国の地下鉄みたいに車中とかでやられたりすると、心が波立って出さないと悪いみたいな気になるんですよ
日本で乞食を見ないのは社会保障が機能していて、「哀れみ販売業」があまりリアリティを持たないからでしょう。初期の尺八を吹いて生きていった人達の中に、自ら望んで托鉢業を選んだ人はいなかったと思います。それでも乞食ではないとの矜持が有ったんでしょうか?
「憐れまれてたまるか」という気持ちは、やがて集団化して、違う手段で人の気持ちを圧迫する居直りに変わりました。芸を磨くより楽ですもんね。
今のホームレスやルンペンは、それなりに少しは働いており乞食とは違います。乞食は哀れみ、同情を商売道具にしているわけです。私の子供の頃はいくらでもいました。でも流石に「右や左の旦那様、哀れな乞食にお恵みを」という定番セリフは聞いたことが有りません。豊かになった昭和40年くらいから乞食は見る事がなくなりました。
豊かな国でも日本以外では乞食はショッチュウ見ます。アメリカでもチョット小マシなレストランの出入り口には紙コップを持ったアル中ジイサンがいるもんですし、ヨーロッパでも、たとえばフランクフルトの駅前の飲食街にはインド人移民が何人もシートをしいて物乞いをしています。
豊かな国では無いが中国は、ある程度本気で共産主義をやっていた頃はいなかった乞食も今では多いです。人口で言ったら富裕層と同じくらいいるじゃねえの。中国っていえば、昔の科挙は賤民には受験資格が有りませんでしたが、乞食には有りました。「富貴天にあり」ですから、乞食は金が無い状態であって卑しいというのとは違うと考えていたみたいですね。そのせいか今も日本の乞食みたいに卑屈ではないですね。
インドなどの貧しい国では、乞食はほとんど産業ですね。西アジアのバクシーシと言うのですか、もう貰って当然という感じです。でも私が見た中ではインドの乞食が一番芸域が広いですな。カタワやライ病で崩れた体を資本にしているのは気持ちが圧迫されてイヤですが、子供の乞食の芸達者ぶりにはホント感心しますわ。アッパレな芸人です。
それでも乞食と旅芸人、あるいは托鉢との差は芸の有る無しなのでしょうか?
虚無僧が何処から出てきたのかは諸説有りますな。
まず有力視されるボロボロは芸なんでしょうかね。4,5人でいて高下駄を履き、子供を抱いた女と笠の下に巻物をくくりつけた男がいるのが定型ですが、尺八は持っていません。
16世紀はじめの土佐光信の「三十二番職人歌合」には虚妄僧として絵が残っていますが、長い尺八を吹いていますし、同じく「七十一番職人歌合」には琵琶法師が尺八を持っていて、ここらあたりは芸人と分かります。
17世紀後半には虚無僧としての集団を形成しますが、こうなってくると近い職業形態はヤクザです。
私は乞食を見たら、とりあえず幾らかでも出します。アンデルセンの「マッチ売りの少女」みたいに本当に困っているかも知れないからです。そう想像すると無視できないのです。西アジアやインドみたく普通の風景になってしまえば何てことないですが、韓国の地下鉄みたいに車中とかでやられたりすると、心が波立って出さないと悪いみたいな気になるんですよ
日本で乞食を見ないのは社会保障が機能していて、「哀れみ販売業」があまりリアリティを持たないからでしょう。初期の尺八を吹いて生きていった人達の中に、自ら望んで托鉢業を選んだ人はいなかったと思います。それでも乞食ではないとの矜持が有ったんでしょうか?
「憐れまれてたまるか」という気持ちは、やがて集団化して、違う手段で人の気持ちを圧迫する居直りに変わりました。芸を磨くより楽ですもんね。
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