覚悟の時
- 2015/10/22
- 22:24
プロだったら覚悟しなくては。どんな道にしろ自営はいよいよとなれば人は助けてくれない。所詮頼れるのは自分だけ、自己責任の世界です。プロであれば誰でもそういう時が有りますわな・・・。
川村泰山さんは間違いなく都山流の頂点に立たれる方ですし、山本邦山亡き後、一門の総帥的立場の人です。抜群の人柄の良さで、この方の悪口は聞いた事が有りません。
この川村門下というのは呆れるほど豊富な人材が揃っています。坂田梁山でしょ、設楽瞬山でしょ、渡辺紅山、川又夜山、川村葵山、イイカゲンに思い出してザッと指折っただけで、これほどの人が挙がります。余談ですが、子役タレントの鈴木福クンがお孫さんであることは御存知でしょう。
この川村さんは4人の子供持ちですが、若い頃、どんなに苦しくてもアルバイトはしないと覚悟したそうです。
古賀将之さん。1970年頃に日本音楽集団で尺八を吹いていました。牧原一路さんの最初の先生ですよ。70年代の初めにアメリカに活動拠点を移しました。何年か経って日本に一時帰国したおりの事。
私は用が有って横山勝也先生の稽古場に行きました。
「その辺で古賀さんに会わなかったですか? そう、おかしいな、さっき来てね、稽古中だからチョット待ってて、そう言ったんだけどね、何時の間にかいなくなっちゃた」
3年前に京都でお会いした時に、その事を言うと、飛行機の時間が迫っていたとのことでした。古賀さんは横山勝也の信奉者ですから、時間が無くても一目会いに行ったんですね。
アメリカに拠点を移した後、どんな事態になっても、たとえ飢え死にしても尺八以外の事はしないと誓ったそうです。その頃のアメリカって覚悟が無くて行けないですよ。60以上の人は知っていますが、アメリカ旅行だって大変なのに、まして居を移すとなれば・・・。グリーンカードも無いのに働いたって、待っているのは劣悪な条件。さながらスタインベックの『怒りの葡萄』の世界を体験することになります。それでもう40年。大したものです。
10年以上前ですが私がアメリカで展示会を計画したおり「何だったら僕がエージェントをやっても良いですよ」と言ってくださいました。
その逆。ジョン・ネプチューン。アメリカ人が日本に来て尺八で生活出来るとは誰も思わなかった。最初の頃は英会話を教えていましたけどね。その生徒の一人が矢下勇厳さんの娘さんでしたな。尺八で生活が立たない時代でも、いつも楽しそうにしていました。
島原帆山先生。戦後、全市壊滅の広島で月謝は米、芋。それでも焼け跡のバラックで尺八教習を続けました。「親戚が言うわけです。広島で尺八で生活出来るわけが無い。援助するから他に仕事を見つけた方が良い。私だって悩みましたよ。今にして思うに、ここが人生の分かれ道だったね。それで決めました。戦死したと思えば良い。沢山の友人が尺八に思いを残して死んでいった。私がその人達の分まで吹こう」
将来は究極のところ、どうなるか分かりません。私は尺八は35年ぶりに上昇気運が出てきたと思うので、今年の夏から増産に入っています。それだって予想に過ぎません。でも、尺八商売に限らず、いざとなれば覚悟を決めなくてはならないでしょう。決めた道、泣き言は言っても仕方が無い・・・。
川村泰山さんは間違いなく都山流の頂点に立たれる方ですし、山本邦山亡き後、一門の総帥的立場の人です。抜群の人柄の良さで、この方の悪口は聞いた事が有りません。
この川村門下というのは呆れるほど豊富な人材が揃っています。坂田梁山でしょ、設楽瞬山でしょ、渡辺紅山、川又夜山、川村葵山、イイカゲンに思い出してザッと指折っただけで、これほどの人が挙がります。余談ですが、子役タレントの鈴木福クンがお孫さんであることは御存知でしょう。
この川村さんは4人の子供持ちですが、若い頃、どんなに苦しくてもアルバイトはしないと覚悟したそうです。
古賀将之さん。1970年頃に日本音楽集団で尺八を吹いていました。牧原一路さんの最初の先生ですよ。70年代の初めにアメリカに活動拠点を移しました。何年か経って日本に一時帰国したおりの事。
私は用が有って横山勝也先生の稽古場に行きました。
「その辺で古賀さんに会わなかったですか? そう、おかしいな、さっき来てね、稽古中だからチョット待ってて、そう言ったんだけどね、何時の間にかいなくなっちゃた」
3年前に京都でお会いした時に、その事を言うと、飛行機の時間が迫っていたとのことでした。古賀さんは横山勝也の信奉者ですから、時間が無くても一目会いに行ったんですね。
アメリカに拠点を移した後、どんな事態になっても、たとえ飢え死にしても尺八以外の事はしないと誓ったそうです。その頃のアメリカって覚悟が無くて行けないですよ。60以上の人は知っていますが、アメリカ旅行だって大変なのに、まして居を移すとなれば・・・。グリーンカードも無いのに働いたって、待っているのは劣悪な条件。さながらスタインベックの『怒りの葡萄』の世界を体験することになります。それでもう40年。大したものです。
10年以上前ですが私がアメリカで展示会を計画したおり「何だったら僕がエージェントをやっても良いですよ」と言ってくださいました。
その逆。ジョン・ネプチューン。アメリカ人が日本に来て尺八で生活出来るとは誰も思わなかった。最初の頃は英会話を教えていましたけどね。その生徒の一人が矢下勇厳さんの娘さんでしたな。尺八で生活が立たない時代でも、いつも楽しそうにしていました。
島原帆山先生。戦後、全市壊滅の広島で月謝は米、芋。それでも焼け跡のバラックで尺八教習を続けました。「親戚が言うわけです。広島で尺八で生活出来るわけが無い。援助するから他に仕事を見つけた方が良い。私だって悩みましたよ。今にして思うに、ここが人生の分かれ道だったね。それで決めました。戦死したと思えば良い。沢山の友人が尺八に思いを残して死んでいった。私がその人達の分まで吹こう」
将来は究極のところ、どうなるか分かりません。私は尺八は35年ぶりに上昇気運が出てきたと思うので、今年の夏から増産に入っています。それだって予想に過ぎません。でも、尺八商売に限らず、いざとなれば覚悟を決めなくてはならないでしょう。決めた道、泣き言は言っても仕方が無い・・・。
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