ハロウィン
- 2015/11/01
- 09:38
私の子供の頃、昭和30年代の半ばはクリスマスはすでに定着していましたが、バレンタイン、ハロウィンは聞いたことの無い段階でした。バレンタインは知識としては、もう1970年代の初めには有ったような気がしますが、習慣としては私の大学時代までは無かったと思います。イヤ無かった、断じて無かった。その証拠に私ほどの男が大学卒業までチョコレートは一枚も貰ったことが無い。
それが大学卒業後、社会に出てみると今ほどでは勿論ないが、若い社会人の間では、ある程度は行われていました。「当たり前だ」と言った大学の先輩もいましたが、御本人だって聞くと在学中は一枚も貰っていないそうです。ほら見ろ。幼い頃、物乞い同然で進駐軍あいてに「ギブミー、チョコレート」と言っていた連中に何が分かるもんか。
ハロウィンのカボチャのオモチャをチラホラ見るようになったのは昭和が終わり平成になったころからです。でも私の子供のころでも「トリック オア トリート」、食べてるお菓子を分けてくれないヤツは仕返しされました。
ハロウィンに限らず、キリスト教徒というか一神教のこの辺の心理が良く分かりません。私達文学部出身の者は、ある時代もしくはある民族の生活心情を知るのには、同時代に出された小説や随筆を読みます。
ハロウィンは万聖節と収穫祭が混じったそうですが、聖書の何処を読むと死人が特定の時期に甦るのでしょうか?人間はアダムとイヴから始まったそうですが、今の人は事実としては信じていない人が欧米でも大半でしょうが、「カノッサの屈辱」の時代でもゲルマンの王様の祖先は神様です。
神話あるいは宗教的事実と事実は、曖昧な境目で共存しているのは、ある意味、人間の知恵なのかも知れません。
私は音楽知識で分からない事が有ると飯吉翔山さんに聞きます。昨日も教えてもらいましたが、音程音階の妥協点です。ピアノはとても優れた楽器ですが、音程は固定です。他の楽器が入って合奏する場合には基本的には他の楽器が合わせなくてはなりません。ただ、個々の楽器はピアノに寄り添う箇所と自分を通す箇所と有ると言います。それで曲が成立しないケースでは、その人その楽器とは一緒にやらないだけです。社会における人間関係と同じですよ。固定された観念を押し通すばかりでは万事うまくいくはずが有りませんよ。
尺八の方。今まで製管師に言ってキョトンとされた事ってありませんか。勿論ここ30年の話です。30年以前の製管師、特に民謡系や琴古の技術、知識面での酷さを問題にしている分けでは無く、たとえば「1ヘルツ上げてくれ」とか「内吹き用の尺八に直してくれ」または「純正調の尺八を作ってくれ」。これが何故に製管師をキョトンとさせるのか?来月号の『邦楽ジャーナル』で飯吉さんの文を読んでください。音楽だって社会における人間の関係と無関係に存在しているんじゃないと思いますがね。
それが大学卒業後、社会に出てみると今ほどでは勿論ないが、若い社会人の間では、ある程度は行われていました。「当たり前だ」と言った大学の先輩もいましたが、御本人だって聞くと在学中は一枚も貰っていないそうです。ほら見ろ。幼い頃、物乞い同然で進駐軍あいてに「ギブミー、チョコレート」と言っていた連中に何が分かるもんか。
ハロウィンのカボチャのオモチャをチラホラ見るようになったのは昭和が終わり平成になったころからです。でも私の子供のころでも「トリック オア トリート」、食べてるお菓子を分けてくれないヤツは仕返しされました。
ハロウィンに限らず、キリスト教徒というか一神教のこの辺の心理が良く分かりません。私達文学部出身の者は、ある時代もしくはある民族の生活心情を知るのには、同時代に出された小説や随筆を読みます。
ハロウィンは万聖節と収穫祭が混じったそうですが、聖書の何処を読むと死人が特定の時期に甦るのでしょうか?人間はアダムとイヴから始まったそうですが、今の人は事実としては信じていない人が欧米でも大半でしょうが、「カノッサの屈辱」の時代でもゲルマンの王様の祖先は神様です。
神話あるいは宗教的事実と事実は、曖昧な境目で共存しているのは、ある意味、人間の知恵なのかも知れません。
私は音楽知識で分からない事が有ると飯吉翔山さんに聞きます。昨日も教えてもらいましたが、音程音階の妥協点です。ピアノはとても優れた楽器ですが、音程は固定です。他の楽器が入って合奏する場合には基本的には他の楽器が合わせなくてはなりません。ただ、個々の楽器はピアノに寄り添う箇所と自分を通す箇所と有ると言います。それで曲が成立しないケースでは、その人その楽器とは一緒にやらないだけです。社会における人間関係と同じですよ。固定された観念を押し通すばかりでは万事うまくいくはずが有りませんよ。
尺八の方。今まで製管師に言ってキョトンとされた事ってありませんか。勿論ここ30年の話です。30年以前の製管師、特に民謡系や琴古の技術、知識面での酷さを問題にしている分けでは無く、たとえば「1ヘルツ上げてくれ」とか「内吹き用の尺八に直してくれ」または「純正調の尺八を作ってくれ」。これが何故に製管師をキョトンとさせるのか?来月号の『邦楽ジャーナル』で飯吉さんの文を読んでください。音楽だって社会における人間の関係と無関係に存在しているんじゃないと思いますがね。
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