幻のザ・邦楽
- 2015/11/27
- 23:04
邦楽ジャーナル誌が創刊されてから間もなく28年になります。正直に言って私は3号雑誌で終わると思っていました。創刊の話を聞いた時、どう考えても商業として邦楽雑誌が成立するとは思えませんでした。
和楽器の組合とかが金を出し合って発行する「業界御用達雑誌」ですとマア当たり障りの無い事しか書けませんわな。邦楽ジャーナルが支持を得たのは業界の紐付きではなかったからです。
社長の田中さんは、関西大学の出身で卒業と同時に邦楽社に就職しました。大学在学中からしばしば邦楽社に足を運び就職を依頼していて、その熱意が評価されたんです。
キミはいくらで自分を売る? 「・・・11万円」 マアそんなところだろうな。 それが邦楽社社長のオーケーが出た瞬間です。1980年頃でも少し安いとは思いますよ。でも2万円くらいは「志実現料」ですわな。
その頃の邦楽社は吉川英史先生が主幹で『季刊邦楽』という雑誌を出していました。皆から「つまんねえ」と言われていましたが、邦楽学者さんが主な主筆者でしたから研究書としての読みごたえは有りました。田中さんはその編集に携わりました。
その時の経験で、書かねばならない事はこんなんじゃないと思ったのでしょう。やろうと思ったら独立しかないでしょう。
さて、邦楽ジャーナルの1年前、『ザ・邦楽(ホウガクまたはHougaku)』という雑誌の企画が有ったのを憶えている人は今はもう少ないでしょう。KⅯさんという方がリーダーで全員が女性でした。総員4,5人でしたね。KⅯさんは元は『邦楽の友』にいらしたようです。話の端々からうかがえました。「邦楽の友だって一番多い時で4万5千部にいったのよ。今からだって面白い内容ならいくと思いませんか」、ナルホド。その頃の出版業界は公称の半分が実数と言われていましたから、文字通り「話半分」ですが、マア公称で一万も出れば何とか食えますかね。やってみなくては分かりませんですわな。
新宿からほど近い曙町に事務所を開いたんですが、計画の段階で頓挫しました。KⅯさんはスナックをやっていましたから、私は始めはそこでやれば良いのにと思いました。最初から家賃の高い所で無理をすることはないですよ。邦楽ジャーナルだってスタートは、ある箏屋の片隅を借りてやってました。最初からハリコムと後が続かないです。経営は慣れていない印象を持ちました。意気は盛んだったんですがね・・・。
その時に押して旗揚げしていたらどうだったのでしょう。尺八界はまだ元気でしたし、箏三弦も今は老大家となっている人達が改革の意気に燃えていたころです。
『ザ・邦楽』のスタッフ達と話していて思ったのですが、視界が狭く先鋭化していました。思い切った事を書いても尺八なら何てこと無いでしょうが、箏のオバサン達とケンカして3号で空中分解するか、それとも更に先鋭化して大化けした可能性も有ります。
今にいたるも邦楽界の人って批判に対して過剰反応しますよね、ケケケ、怒ったって、もう誰も怖がってなんかいないのにね。『ザ・邦楽』が有ったら今すこし早く批判の免疫が出来ていたかも知れませんね。
※ 新規のホームページをご覧ください。警告は前の影響で今のは心配有りません。
和楽器の組合とかが金を出し合って発行する「業界御用達雑誌」ですとマア当たり障りの無い事しか書けませんわな。邦楽ジャーナルが支持を得たのは業界の紐付きではなかったからです。
社長の田中さんは、関西大学の出身で卒業と同時に邦楽社に就職しました。大学在学中からしばしば邦楽社に足を運び就職を依頼していて、その熱意が評価されたんです。
キミはいくらで自分を売る? 「・・・11万円」 マアそんなところだろうな。 それが邦楽社社長のオーケーが出た瞬間です。1980年頃でも少し安いとは思いますよ。でも2万円くらいは「志実現料」ですわな。
その頃の邦楽社は吉川英史先生が主幹で『季刊邦楽』という雑誌を出していました。皆から「つまんねえ」と言われていましたが、邦楽学者さんが主な主筆者でしたから研究書としての読みごたえは有りました。田中さんはその編集に携わりました。
その時の経験で、書かねばならない事はこんなんじゃないと思ったのでしょう。やろうと思ったら独立しかないでしょう。
さて、邦楽ジャーナルの1年前、『ザ・邦楽(ホウガクまたはHougaku)』という雑誌の企画が有ったのを憶えている人は今はもう少ないでしょう。KⅯさんという方がリーダーで全員が女性でした。総員4,5人でしたね。KⅯさんは元は『邦楽の友』にいらしたようです。話の端々からうかがえました。「邦楽の友だって一番多い時で4万5千部にいったのよ。今からだって面白い内容ならいくと思いませんか」、ナルホド。その頃の出版業界は公称の半分が実数と言われていましたから、文字通り「話半分」ですが、マア公称で一万も出れば何とか食えますかね。やってみなくては分かりませんですわな。
新宿からほど近い曙町に事務所を開いたんですが、計画の段階で頓挫しました。KⅯさんはスナックをやっていましたから、私は始めはそこでやれば良いのにと思いました。最初から家賃の高い所で無理をすることはないですよ。邦楽ジャーナルだってスタートは、ある箏屋の片隅を借りてやってました。最初からハリコムと後が続かないです。経営は慣れていない印象を持ちました。意気は盛んだったんですがね・・・。
その時に押して旗揚げしていたらどうだったのでしょう。尺八界はまだ元気でしたし、箏三弦も今は老大家となっている人達が改革の意気に燃えていたころです。
『ザ・邦楽』のスタッフ達と話していて思ったのですが、視界が狭く先鋭化していました。思い切った事を書いても尺八なら何てこと無いでしょうが、箏のオバサン達とケンカして3号で空中分解するか、それとも更に先鋭化して大化けした可能性も有ります。
今にいたるも邦楽界の人って批判に対して過剰反応しますよね、ケケケ、怒ったって、もう誰も怖がってなんかいないのにね。『ザ・邦楽』が有ったら今すこし早く批判の免疫が出来ていたかも知れませんね。
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