朝鮮部落
- 2015/12/01
- 23:15
私は昭和38年まで二子玉川で暮らしました。不思議なものですね、この歳になっても何年かに一度夢に見ます。私が子供時代の家に帰るのです。決まって部屋はウス暗く、何十年も前に死んだ祖父も祖母もいるのです。夢とは言え変だと思わない自分に首を捻ります。
当時、二子玉川の駅からホンの2,3分の所に「朝鮮部落」と呼ばれる一画が有りました。十年くらい前、そこを訪ねてみましたが、区画はそのままなので、どこだかは分かりましたが、もう跡形も無し。その狭さにあらためて驚きました。「こんな狭い所に何世帯も暮らしていたんだ」、それがその時の気持ちです。
朝鮮部落の子供達は日本人と交わらず常に集団でいました。日本人の子供にいじめられるからに決まっていますよ。
小学校時代、たぶん一年の時ですが、Sという体の大きな同年の子と親しくなりました。学校は違っていましたので親しくなった切っ掛けは忘れました。一度Sの家に行きましたが、多摩川の土手の松の木のそばにポツンと一軒有った掘っ建て小屋です。一間しか無かったと思います。電気が有ったのかどうか、ひどく暗かったことを憶えています。
しばらくたって、Sと会わなくなりました。遊びにも来ないので、私が松の木を目印に訪ねてみました。Sは暗い部屋の中にいましたが、「今度国に帰る事になった」というような事を言いました。
その後、訪ねた時はもう誰も住んではいませんでした。淋しかった気持ちを今も忘れません。祖父に聞いてみましたが、土手に許可無く住んでいて、国とは朝鮮だろうと言いました。私は「朝鮮なら、どうして駅の近くの部落に住まないのだろうか?」とうっすら思いましたが、子供の事ですから二つの派閥に分かれている事など知りません。詳しいことは今も知りません。他の事情も有ったのかも知れません。
自分が生活をしていた土地から離れて、他国で暮らすだけでも辛いのに、その土地の人だって心安く受け入れてはくれないものでしょう。
かつての虚無僧はこうだったに違いありません。「家も国も無くして、一本の尺八しか持っていない人間がそれでも生きていこうとしたんだよ。だから古典本曲の中には痛切な悲しさとか、人や故郷が恋しいといった気持ちがイッパイ詰まっているんだよ。だから、その音楽が人の気持ちをうたないとすれば、それは吹く僕達が怠けているとしか思えない」。これは40年前の横山勝也先生のお言葉です。
歴史的に本当にそうだったかは別にして、私は今も古典本曲を聴く時、そう思って聴いています。
自分達の生活の基盤の外側にいる者には、かつての日本人は冷たかった。虚無僧がやがて集団化したのは当然でしょう。朝鮮、韓国の区別が有っても在日コリアンが集団化した経緯も良く分かります。子供の頃の朝鮮部落の子供達もいつも集団でいましたもんね。
表では朝鮮総連と大韓民国居留民団。裏だと、「朝鮮人は差別されている。バラバラじゃ駄目だ」こういう趣旨で町井久之のもとに結集したのが東京だと東声会、大阪だと姜昌興の傘下に集まった愚連隊集団の明友会。
これって虚無僧の集団の始まりと瓜二つなんじゃないですか。
当時、二子玉川の駅からホンの2,3分の所に「朝鮮部落」と呼ばれる一画が有りました。十年くらい前、そこを訪ねてみましたが、区画はそのままなので、どこだかは分かりましたが、もう跡形も無し。その狭さにあらためて驚きました。「こんな狭い所に何世帯も暮らしていたんだ」、それがその時の気持ちです。
朝鮮部落の子供達は日本人と交わらず常に集団でいました。日本人の子供にいじめられるからに決まっていますよ。
小学校時代、たぶん一年の時ですが、Sという体の大きな同年の子と親しくなりました。学校は違っていましたので親しくなった切っ掛けは忘れました。一度Sの家に行きましたが、多摩川の土手の松の木のそばにポツンと一軒有った掘っ建て小屋です。一間しか無かったと思います。電気が有ったのかどうか、ひどく暗かったことを憶えています。
しばらくたって、Sと会わなくなりました。遊びにも来ないので、私が松の木を目印に訪ねてみました。Sは暗い部屋の中にいましたが、「今度国に帰る事になった」というような事を言いました。
その後、訪ねた時はもう誰も住んではいませんでした。淋しかった気持ちを今も忘れません。祖父に聞いてみましたが、土手に許可無く住んでいて、国とは朝鮮だろうと言いました。私は「朝鮮なら、どうして駅の近くの部落に住まないのだろうか?」とうっすら思いましたが、子供の事ですから二つの派閥に分かれている事など知りません。詳しいことは今も知りません。他の事情も有ったのかも知れません。
自分が生活をしていた土地から離れて、他国で暮らすだけでも辛いのに、その土地の人だって心安く受け入れてはくれないものでしょう。
かつての虚無僧はこうだったに違いありません。「家も国も無くして、一本の尺八しか持っていない人間がそれでも生きていこうとしたんだよ。だから古典本曲の中には痛切な悲しさとか、人や故郷が恋しいといった気持ちがイッパイ詰まっているんだよ。だから、その音楽が人の気持ちをうたないとすれば、それは吹く僕達が怠けているとしか思えない」。これは40年前の横山勝也先生のお言葉です。
歴史的に本当にそうだったかは別にして、私は今も古典本曲を聴く時、そう思って聴いています。
自分達の生活の基盤の外側にいる者には、かつての日本人は冷たかった。虚無僧がやがて集団化したのは当然でしょう。朝鮮、韓国の区別が有っても在日コリアンが集団化した経緯も良く分かります。子供の頃の朝鮮部落の子供達もいつも集団でいましたもんね。
表では朝鮮総連と大韓民国居留民団。裏だと、「朝鮮人は差別されている。バラバラじゃ駄目だ」こういう趣旨で町井久之のもとに結集したのが東京だと東声会、大阪だと姜昌興の傘下に集まった愚連隊集団の明友会。
これって虚無僧の集団の始まりと瓜二つなんじゃないですか。
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