上海
- 2015/12/20
- 23:51
上海は今も中国における尺八の拠点なのだろうか?神崎さんがお元気であれば去年も今年も上海で展示会をやっていたはずです。でも2年前の時点で「もう北京に中心が移っている」と彼が言っていました。
もともと中国で尺八がスタートしたのは杭州からです。「尺八里帰り運動」と言うのが有りましたが、そこでボランテァ、寄付の形で尺八が持ち込まれました。私のところで毎年3~5本の尺八を買って行って只で置いてくるのです。もう10年以上前です。
「大橋さん、まだ杭州では五百人が尺八を待っています。何か良い方法は有りませんかね。私だって年金生活ですからね。ポケットマネーでは限界が有ります」。一度、虚無僧研究会から10万円の寄付が有り私のところの尺八を3本買っていきましたが、基本的には和田相輔さんのポケットマネーです。それでは無理が有りますね。
和田さんから現地の笛製作業者との合作を提案されたので承知しましたが、そのままです。今ならもう現地生産でも安く出来ないですね。
神崎さんは中国の専門家でしたから、中キチさんの様に中国に対してアマイ幻想は持っていません。かと言って中国のマイナス点ばかり目につく反中さんでは勿論ありません。リアルに、それよりは若干「中国びいき」の目で見ていました。
「五百人が待っていると言ったって、それは当たり前でしょう。だって只なんですから」
「モチロン杭州が尺八発生の地なんてオハナシですが、でも良いじゃないですか。そう言う事にしておけば」
これは8年前の事ですが、私が上海の事情を聞くと、「まだ数人です」と言っていました。それが急拡大したのは蘇州の張聴さんが上海でも広めたからです。
その後、張さんは北京に拠点を移しましたので、神崎さんは中心は北京になったと判断しました。
上海は私にとって中国で一番魅力に富んだ街です。40年ほど前に上海を訪れた時は、同行者には戦前の中国に住んでいた人が何人かいて、口々に「変わらないなあ、昔のママだ」と言っていましたが、今は超未来都市と戦前が混在していて何ともエキゾチックです。こんな面白い街ってチョット無いですよ。
幕末から戦前までは「西洋文明」を最も身近に体験できる場所が上海でした。長州の高杉晋作も大村益次郎も上海に密航して大きな刺激を受けたのです。「攘夷なんて言っていて西洋を甘く見ると泣きをみるぞ」。同時に西洋人に支配された悲惨な中国人も見て、「絶対に植民地支配を受けてはいけない」と痛感しました。
戦前の日本人にとって上海はパスポートがいらない外国で、しかも手軽に中国と西洋を体験できる都市でした。昭和に入ってから戦後の昭和25年くらいまで中国の都市で上海ほど日本の流行歌に歌われた街は無いですね。思いつくままに挙げてみましょうか、東海林太郎「上海の街角で」、岡晴夫「上海の花売り娘」、ディック・ミネ「上海ブルース」、李香蘭で「さらば上海」、「上海の月」、戦後になって津村謙の「上海帰りのリル」、ディック・ミネ「夜霧のブルース」、きりが有りませんよ。
バンド、虹口は昔のまま通じますが、かつて夢のとか霧のとか唄われて、昔の日本人には懐かしい四馬路は、今は中国に行って誰に聞いても「知らない」と言われます。色町で人民中国が成立して間もなく娼婦も地名も廃止されたからです。
神崎さんからは「これからは展示会は北京と香港ですよ」とアドバイスされていました。彼の死でしばしのお休みでしたが、そろそろ再開します。上海は中国国際航空で行き、トランジットをして台北まで飛ぶと一人4万弱で上海、台湾の展示会が出来るのです。中国から台湾に直で行けるなんて昔は考えられなかったですね。時代は人が昼寝していても進むんですよ。
もともと中国で尺八がスタートしたのは杭州からです。「尺八里帰り運動」と言うのが有りましたが、そこでボランテァ、寄付の形で尺八が持ち込まれました。私のところで毎年3~5本の尺八を買って行って只で置いてくるのです。もう10年以上前です。
「大橋さん、まだ杭州では五百人が尺八を待っています。何か良い方法は有りませんかね。私だって年金生活ですからね。ポケットマネーでは限界が有ります」。一度、虚無僧研究会から10万円の寄付が有り私のところの尺八を3本買っていきましたが、基本的には和田相輔さんのポケットマネーです。それでは無理が有りますね。
和田さんから現地の笛製作業者との合作を提案されたので承知しましたが、そのままです。今ならもう現地生産でも安く出来ないですね。
神崎さんは中国の専門家でしたから、中キチさんの様に中国に対してアマイ幻想は持っていません。かと言って中国のマイナス点ばかり目につく反中さんでは勿論ありません。リアルに、それよりは若干「中国びいき」の目で見ていました。
「五百人が待っていると言ったって、それは当たり前でしょう。だって只なんですから」
「モチロン杭州が尺八発生の地なんてオハナシですが、でも良いじゃないですか。そう言う事にしておけば」
これは8年前の事ですが、私が上海の事情を聞くと、「まだ数人です」と言っていました。それが急拡大したのは蘇州の張聴さんが上海でも広めたからです。
その後、張さんは北京に拠点を移しましたので、神崎さんは中心は北京になったと判断しました。
上海は私にとって中国で一番魅力に富んだ街です。40年ほど前に上海を訪れた時は、同行者には戦前の中国に住んでいた人が何人かいて、口々に「変わらないなあ、昔のママだ」と言っていましたが、今は超未来都市と戦前が混在していて何ともエキゾチックです。こんな面白い街ってチョット無いですよ。
幕末から戦前までは「西洋文明」を最も身近に体験できる場所が上海でした。長州の高杉晋作も大村益次郎も上海に密航して大きな刺激を受けたのです。「攘夷なんて言っていて西洋を甘く見ると泣きをみるぞ」。同時に西洋人に支配された悲惨な中国人も見て、「絶対に植民地支配を受けてはいけない」と痛感しました。
戦前の日本人にとって上海はパスポートがいらない外国で、しかも手軽に中国と西洋を体験できる都市でした。昭和に入ってから戦後の昭和25年くらいまで中国の都市で上海ほど日本の流行歌に歌われた街は無いですね。思いつくままに挙げてみましょうか、東海林太郎「上海の街角で」、岡晴夫「上海の花売り娘」、ディック・ミネ「上海ブルース」、李香蘭で「さらば上海」、「上海の月」、戦後になって津村謙の「上海帰りのリル」、ディック・ミネ「夜霧のブルース」、きりが有りませんよ。
バンド、虹口は昔のまま通じますが、かつて夢のとか霧のとか唄われて、昔の日本人には懐かしい四馬路は、今は中国に行って誰に聞いても「知らない」と言われます。色町で人民中国が成立して間もなく娼婦も地名も廃止されたからです。
神崎さんからは「これからは展示会は北京と香港ですよ」とアドバイスされていました。彼の死でしばしのお休みでしたが、そろそろ再開します。上海は中国国際航空で行き、トランジットをして台北まで飛ぶと一人4万弱で上海、台湾の展示会が出来るのです。中国から台湾に直で行けるなんて昔は考えられなかったですね。時代は人が昼寝していても進むんですよ。
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