尺八の産業転換
- 2015/12/22
- 22:26
筑後の柳川に立花という大名家が有りました。秀吉の時代には立花家の当主は宗茂で、非常な器量を皆から認められていました。秀吉の朝鮮出兵は緒戦は破竹の勢いでしたが、朝鮮の宗主国である明が大軍をもって介入して、日本軍は退却に入りました。勢いに乗り南下する明軍を食い止める防衛ラインをソウルの手前に定め、そこで起きたのが「碧蹄館の戦い」です。この頃ではサッパリですが、戦前の日本では有名でした。講談では、「李如松ひきいる明の大軍43万。迎え撃つは小早川隆景を大将とする日本の精鋭10万」。数字には著しい膨らましが有りますが、ともかく元寇以来となる日本と中国の本格的な大会戦です。
宇喜多秀家が総大将、先陣の大将が小早川隆景、その他、黒田長政、吉川広家、石田三成、大谷吉継などの諸将が一致して日本軍の先鋒に推したのが立花宗茂だと言いますから尋常の人物ではなかったのでしょう。
この立花宗茂は「関ケ原」では石田三成に味方して、戦後に柳川13万石を没収されましたが、やがて11万石で返り咲ます。こんな事も珍しいですね。他には加賀小松12万石を改易されて陸奥棚倉10万石に封じられた丹羽長重くらいでしょうかね。
余程に評判も信用も有った証拠です。無事に明治をむかえて立花伯爵家となりました。
この宗茂が江戸に住んでいた浪人時代に家臣がドカタで主を養いましたが、中に尺八で托鉢した者がいて、稼ぎはこれが一番良かったと言います。
当時の江戸は町造りの真っ最中で方々から人が集まっていました。日銭稼ぎの仕事は豊富に有りましたが、それ以上に尺八が稼げたというのも不思議な話です。
托鉢というのは業種形態としては非常に効率性の悪いモノです。自然採集や焼き畑農法あるいは漁業を経済基盤にして成立した国家は無いそうですよ。同業人口の集中が逆に効率性の悪さになりますからね。遊牧民も本来の遊牧を一時置いて、強い侵略性あるいは略奪性に目覚めた時に初めて集団化します。それまでは広い土地に少ない人数の方が遊牧は産業として効率が良いのです。
ですから、まして托鉢は「産業」と言う前の姿です。当然、後の集団化は托鉢を基盤に据えたものでは有りません。
托鉢で日銭を稼いでいた尺八業が集団化していって、17世紀いっぱいで虚無僧団を形成したのは、本来集団形態を志向する武士が構成員だったからに違いありません。集団化する過程で武士以外の人達は排除されたのです。その前の段階として尺八托鉢が一定の人口を養え、しかも訓練制度が極めて低くても出来る仕事だったからです。失業した武士がやれる仕事として十分に選択肢に入りました。
托鉢が、やがて集団化して「みかじめ産業」となり、その枝葉として教授産業が始まり、虚無僧団が明治維新で解体されると。枝葉であった教授産業が主流となります。
今はそれが終わり実演産業に移る最終の段階です。一つの時代が終わる時、前の産業形態でやってきた人には戸惑いが有るのは当然です。各地で私如き者に「どうすれば良いのでしょうか?」と聞かれる皆さま、産業構造が変わった以上、もう流派会派をこれまでの形で維持する事はどうしたって無理なんですよ。
これから尺八は師匠について始めるモノでは無く、自分で始めて、あるいは友人に手ほどきを受けた人で、より高次段階を目指す人が師匠につくのです。だってギターとかカラオケとか見ても明らかじゃないですか。教授も実演産業の枝葉として残るのです。上手でない師匠の所には誰も行きません。
そして、尺八界の「本道」とか「こうあるべき」というものの大半が、実は教授産業維持の目的で出てきた「人口概念」であったことも明白になります。
宇喜多秀家が総大将、先陣の大将が小早川隆景、その他、黒田長政、吉川広家、石田三成、大谷吉継などの諸将が一致して日本軍の先鋒に推したのが立花宗茂だと言いますから尋常の人物ではなかったのでしょう。
この立花宗茂は「関ケ原」では石田三成に味方して、戦後に柳川13万石を没収されましたが、やがて11万石で返り咲ます。こんな事も珍しいですね。他には加賀小松12万石を改易されて陸奥棚倉10万石に封じられた丹羽長重くらいでしょうかね。
余程に評判も信用も有った証拠です。無事に明治をむかえて立花伯爵家となりました。
この宗茂が江戸に住んでいた浪人時代に家臣がドカタで主を養いましたが、中に尺八で托鉢した者がいて、稼ぎはこれが一番良かったと言います。
当時の江戸は町造りの真っ最中で方々から人が集まっていました。日銭稼ぎの仕事は豊富に有りましたが、それ以上に尺八が稼げたというのも不思議な話です。
托鉢というのは業種形態としては非常に効率性の悪いモノです。自然採集や焼き畑農法あるいは漁業を経済基盤にして成立した国家は無いそうですよ。同業人口の集中が逆に効率性の悪さになりますからね。遊牧民も本来の遊牧を一時置いて、強い侵略性あるいは略奪性に目覚めた時に初めて集団化します。それまでは広い土地に少ない人数の方が遊牧は産業として効率が良いのです。
ですから、まして托鉢は「産業」と言う前の姿です。当然、後の集団化は托鉢を基盤に据えたものでは有りません。
托鉢で日銭を稼いでいた尺八業が集団化していって、17世紀いっぱいで虚無僧団を形成したのは、本来集団形態を志向する武士が構成員だったからに違いありません。集団化する過程で武士以外の人達は排除されたのです。その前の段階として尺八托鉢が一定の人口を養え、しかも訓練制度が極めて低くても出来る仕事だったからです。失業した武士がやれる仕事として十分に選択肢に入りました。
托鉢が、やがて集団化して「みかじめ産業」となり、その枝葉として教授産業が始まり、虚無僧団が明治維新で解体されると。枝葉であった教授産業が主流となります。
今はそれが終わり実演産業に移る最終の段階です。一つの時代が終わる時、前の産業形態でやってきた人には戸惑いが有るのは当然です。各地で私如き者に「どうすれば良いのでしょうか?」と聞かれる皆さま、産業構造が変わった以上、もう流派会派をこれまでの形で維持する事はどうしたって無理なんですよ。
これから尺八は師匠について始めるモノでは無く、自分で始めて、あるいは友人に手ほどきを受けた人で、より高次段階を目指す人が師匠につくのです。だってギターとかカラオケとか見ても明らかじゃないですか。教授も実演産業の枝葉として残るのです。上手でない師匠の所には誰も行きません。
そして、尺八界の「本道」とか「こうあるべき」というものの大半が、実は教授産業維持の目的で出てきた「人口概念」であったことも明白になります。
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