進化論
- 2015/12/27
- 09:28
ダーウィンが『種の起源』を発表してから百五十年も経ちました。今も欧米には「進化論」を信じないばかりか、教育の場に持ち込むことにすら反対している人達がいると言いますから驚きます。
幸か不幸か精神世界を支配する強大な宗教を持たない日本は、同時に群をぬく教養社会でもありますから、本気で「進化論を信じない」と広言する人は天然記念物くらいにしか見当たりません。少なくとも、ある程度にしろ社会的圧力を持つことは無いという程度の数にしかならないでしょう。
種は環境に合わせて変化してきた。どんな圧倒的多数派といえども初めはポツンと存在した孤立の存在です。私の受けた説明だと、ある環境で生存に適した特質、たとえば仲間より足が速くて肉食獣に捕まらないとか、首が平均より少し長くて上の葉っぱまで食べられるとか、何でも良いんです。
たとえば例にとられた日本人と朝鮮人で言うと、この両民族はほぼ同一人種と言って良いのですが、朝鮮人には二重瞼が整形前にはほとんどいません。一重瞼の方が寒冷地には適しているのです。ですから一重瞼が二重瞼の仲間より1割だけ多く、子を生むまで生き延びたとすると、10世代後には二重瞼の4倍の比率で増える。ですから20世代も経ると圧倒的多数派になる、30世代後では一重ばかりになる。そういう事のようです。
尺八が托鉢の楽器だった時は、ロクな音楽をやっていなかった、と言うよりやる必要も無かった。江戸時代後期になって深編笠という虚無僧の定番スタイルになったのも、そもそもそれまでの托鉢曲がその程度だったからですわ。
深編笠を被ったことの有る人は分かるように、横ユリは出来ません。縦ユリやメリカリも不便です。若い時に虚無僧の経験の有る初代都山が手の方を上下させる「手ユリ」を用いたのは、この為です。
次々と新しいソフトが出てくると次々と新型の尺八が出てくるのでしょうか?そうとも言えるしそうでないかも知れません。少なくとも七孔尺八は一定の生存範囲を確保しました。これが比率を上げるのか今くらいで頭打ちなのか、まだ不分明です。ここはソフトしだいでしょう。尺八に合った面白い曲が現れて、しかもそれが七孔でしか出来ないとすれば、七孔は増えますよ。
泉州工房の「オリジナルタイプ」に代表される、いわゆる「スーパー型」も普及しているとは言い難いです。使う側がヘタで使えないという事も有るでしょうが、今も有力なソフトである古典には「向かない」と言うことが一番の理由だと思います。ですが楽器としての能力は高いので、今の調子でソフトのレパートーリーが拡散していけば、やがては何処かでブレークするかも知れません。
ピアノ、バイオリンあるいは箏や三味線は、すでに完成型に入っています。尺八の場合は「むしろ完成型を持たないことで生きのびてきたのかも知れない」という意見も有りますが、種類の拡散と完成型の確立とは別の問題です。
完成した後も箏や三味線はソフトに合わせて新しいタイプを生み出してきました。十七弦にしろ二十弦、三十弦にしろ新しいソフトに対応する為の必然から生まれました。完成型は完成型として、言わば兄弟を生み出したのです。バイオリンとビオラ、チェロみたいなものです。
しかし尺八は「地無し」などの例を見ても分かるように、一見「進歩に逆行」しているかのような動きも有ります。
でも、それはそれで一つの生存環境に当てはまっているのですわ。進化の定理は「最も優秀なモノが生き残るのではなく、環境に合わせて変われたモノが生き残る」ですから、「地無し」も十分にその条件を、今のところは満たしているのでしょう。砂漠にも極地にも深海にだって、そこの環境に適した生物はいますもんね。
でも今有る尺八のレパートーリーの全てが時代の淘汰を受けるのです。今の主流型が世代を経ると少数派になるかも知れませんし、あるいは絶滅するかも知れません。逆に今は人気の無い型が主流になる可能性も有ります。
何にせよ「変化は一切認めない」というのから順番に絶滅します。これは間違いない。
幸か不幸か精神世界を支配する強大な宗教を持たない日本は、同時に群をぬく教養社会でもありますから、本気で「進化論を信じない」と広言する人は天然記念物くらいにしか見当たりません。少なくとも、ある程度にしろ社会的圧力を持つことは無いという程度の数にしかならないでしょう。
種は環境に合わせて変化してきた。どんな圧倒的多数派といえども初めはポツンと存在した孤立の存在です。私の受けた説明だと、ある環境で生存に適した特質、たとえば仲間より足が速くて肉食獣に捕まらないとか、首が平均より少し長くて上の葉っぱまで食べられるとか、何でも良いんです。
たとえば例にとられた日本人と朝鮮人で言うと、この両民族はほぼ同一人種と言って良いのですが、朝鮮人には二重瞼が整形前にはほとんどいません。一重瞼の方が寒冷地には適しているのです。ですから一重瞼が二重瞼の仲間より1割だけ多く、子を生むまで生き延びたとすると、10世代後には二重瞼の4倍の比率で増える。ですから20世代も経ると圧倒的多数派になる、30世代後では一重ばかりになる。そういう事のようです。
尺八が托鉢の楽器だった時は、ロクな音楽をやっていなかった、と言うよりやる必要も無かった。江戸時代後期になって深編笠という虚無僧の定番スタイルになったのも、そもそもそれまでの托鉢曲がその程度だったからですわ。
深編笠を被ったことの有る人は分かるように、横ユリは出来ません。縦ユリやメリカリも不便です。若い時に虚無僧の経験の有る初代都山が手の方を上下させる「手ユリ」を用いたのは、この為です。
次々と新しいソフトが出てくると次々と新型の尺八が出てくるのでしょうか?そうとも言えるしそうでないかも知れません。少なくとも七孔尺八は一定の生存範囲を確保しました。これが比率を上げるのか今くらいで頭打ちなのか、まだ不分明です。ここはソフトしだいでしょう。尺八に合った面白い曲が現れて、しかもそれが七孔でしか出来ないとすれば、七孔は増えますよ。
泉州工房の「オリジナルタイプ」に代表される、いわゆる「スーパー型」も普及しているとは言い難いです。使う側がヘタで使えないという事も有るでしょうが、今も有力なソフトである古典には「向かない」と言うことが一番の理由だと思います。ですが楽器としての能力は高いので、今の調子でソフトのレパートーリーが拡散していけば、やがては何処かでブレークするかも知れません。
ピアノ、バイオリンあるいは箏や三味線は、すでに完成型に入っています。尺八の場合は「むしろ完成型を持たないことで生きのびてきたのかも知れない」という意見も有りますが、種類の拡散と完成型の確立とは別の問題です。
完成した後も箏や三味線はソフトに合わせて新しいタイプを生み出してきました。十七弦にしろ二十弦、三十弦にしろ新しいソフトに対応する為の必然から生まれました。完成型は完成型として、言わば兄弟を生み出したのです。バイオリンとビオラ、チェロみたいなものです。
しかし尺八は「地無し」などの例を見ても分かるように、一見「進歩に逆行」しているかのような動きも有ります。
でも、それはそれで一つの生存環境に当てはまっているのですわ。進化の定理は「最も優秀なモノが生き残るのではなく、環境に合わせて変われたモノが生き残る」ですから、「地無し」も十分にその条件を、今のところは満たしているのでしょう。砂漠にも極地にも深海にだって、そこの環境に適した生物はいますもんね。
でも今有る尺八のレパートーリーの全てが時代の淘汰を受けるのです。今の主流型が世代を経ると少数派になるかも知れませんし、あるいは絶滅するかも知れません。逆に今は人気の無い型が主流になる可能性も有ります。
何にせよ「変化は一切認めない」というのから順番に絶滅します。これは間違いない。
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