そう、あれは20年前にもなりますか、青木鈴慕先生から呼び出され居酒屋で酒をおごっていただきました。呼び出された理由。
「今度ね、中国に行くことになったんだ」とのこと。
團伊玖麿さんのたっての希望で、日本中国文化交流協会の訪中団の一員として行くことになったのです.。團さんは作曲家でありエッセイストであり、血盟団に暗殺された三井の総帥・團琢磨のお孫さんでもあります。日中文化交流に多大な功績が有った方で、その後、中国の旅の途中に蘇州で客死しました。
団長は作家の水上勉さんで、青木先生が文学部出の私を呼んだのは、水上さんに関する知識を私から仕入れようとのお考えでした。ですが、文学部出身といったって作家の好みが有ります。さすがに有名作家ですので代表作はほとんど読んでいますが、私は水上勉は好きではないのです。だから私なんぞに聞いたってロクなことには成りませんでした。ですから一般的な事を聞かれるままにお答えしました。
話のタネとしては、水上さんは小僧時代に京都の等持院で修行というか、まあ小坊主として住み込んだのです。等持院は足利尊氏の建立で、足利家の菩提寺です。ここで幕末に、尊氏、義詮、義満の足利三代の木像が梟首されるという有名な事件が起こりました。この犯人の一人が三輪田元綱で、三輪田学園を創った三輪田真佐子の夫です。三輪田学園の理事長・三輪田勉は私の高校の同級生であり、ということは青木先生の早稲田高校の後輩ということにもなります。
「三輪田は私の後輩です」と言って小話を創ればばチョットした話題になるのでは、そういう事はせっかく呼ばれたのですから申し上げました。
「ところで水上勉さんは私の名前を知っているだろうか?」青木先生がそうおっしゃられたので、それは絶対に知っています、と答えました。水上勉は尺八の事は良く知っていて、尺八を題材に採ったモノに『虚竹の笛』が有ります。
この『虚竹の笛』は実録小説では有りません。ほとんど水上さんが頭一つでひねりだした小説です。資料として『和漢竹簡往来』なんて出てきますが、探してごらんなさいな、明後日まで探しても見つかりませんから。これも創作です。
どう思うって、小説だと思って読めば良いじゃないですか。私は虚竹は実在してはいないというスタンスですし、杭州が尺八発生の地だなんて信じてもいないのですから、今さら小説でどう書かれようとマア構わないと思います。架空の資料が小説の中に出てくるのは別に珍しくないです。
一つ言うと、この尺八小説は簡単に仕上がったものではなく、かなりの時間をかけて執筆された小説です。『虚竹の笛』の事は発表の十数年前に哲学者で禅宗研究の第一人者である柳田聖山さんから聞いていました。ですから相当の推敲が重ねられた上で書かれているのです。
余談ですが、私も水上さんと尺八について対談する話が有ったのですよ。話までは水上さんの所に行ってました。ところで青木先生ではなく私の疑問です。「私の名前は知っていたのでしょうか?」
スポンサーサイト