多数決
- 2016/01/15
- 22:26
国連では人口13億の中国と人口1万人のツバルやナウルが平等に一票だというのも考えてみたら変ですね。拒否権を持つ常任理事国5か国も今では実情とイコールとは言い難いです。でも1971年までは中華民国が入っていましたから、当時は、そのこと自体は右のオカタもあまり強く主張できなかったようです。
台湾の亡命政権とも考えられる中華民国が広大な中国大陸と地球人口の20パーセントを代表しているというのは、どう考えても無理が有りました。台湾政権を大陸政権と交替させようというのは、アルバニアが言い出さなくても、その時点ではすでに世界の大勢でした。その中にあっても、国連の場で台湾擁護に奮戦したのが日本で、当時の反対勢力からも「立ち位置は違うが日本は敵ながら天晴れ」と称賛されたものです。
それが1年後には日中国交正常化ですからね。情況によって素早く変わり身する。これだから日本は繁栄できたのです。義理を尽くして、それで結果が出てしまったのですから、もう変われば良いじゃないですか・・・。
変わってしまった状況下にあって、頑固に過去にしがみつくのは高潔なんでしょうかね?それで多くの人が幸せになる?
私としたことが余計な脱線をしました。
日本三曲協会は私が会員になった昭和60年頃だと約1万人の会員がいました。「東京三曲協会」と揶揄されるように、どうしても東京周辺が中心です。もともと戦後の設立、運営にあたっては納富寿童と米川文子が力を発揮した関係で、この両者の流れが当時においては依然強い勢力を持っていましたが、時代は流れます。
組織形態が合理的で、なお新曲という人気ソフトを持つ宮城会と正派が昭和30年代以降、急激な膨張を示しました。宮城会は天才、道雄の在世中の10倍にもなりましたし、正派は宮城をも人数で上回っていました。昭和の終わりで、宮城が実数9千、正派が1万だったと私は把握していました。しかも、これは会員数であり、膨大なそれ未満の人数を抱えていました。
米川一門は名門ですが、会の人数ということでは、文子、敏子両社中を合わせても、正派や宮城会には遠く及びません。また納富の主宰する童門会は6百人でしたが、間もなく藤井治童を会長とする竹童社と真二つに分裂しましたし、もし都山が本格参入したならば一気に勢力分布は変わってしまいます。幸か不幸か京都に本拠を置く都山が東京中心の日本三曲協会には強い関心を示さなかったので、琴古の優位は動きませんでしたが、おそらく統一都山を率いた初代都山が生きていたら、友好社中である宮城、正派を引き込んで大きな勢力を別に形成したかも知れません。
これは私の全くの想像ですが、都山流楽会が日本三曲協会に一定の役割を認め、興味を持ち出したのは80年代初め。宮城会の強力な支援をうけた離脱会派の島原帆山が人間国宝になったことが契機だったと思います。正派の支持が有り、かつ宮城とも関係の良い山本邦山がいる以上は、座視することも無いということではないですかな?
「一票の重み」とは「数は力」ということでも有ります。理事は一般投票で決まりますからね。常任理事は理事の互選であり、主流派にならなくとも、上の立場の人にはいろいろとね、美味しい事も・・・。賞や勲章だってフリーで貰えると思っている人なんぞ、もういないでしょう。
ですから上の立場の人にしたら急激な勢力分布の変動は歓迎できないのでしょう。これは非難なんぞされるいわれのない、人間世界の当たり前の事です。
当時はまだ宮城や正派には日本三曲協会への新規会員の登録については制限が有りました。「そんなことは無い」と否定はしても周知の事でした。でも時間の経過と共に状況は変わって行きます。もう今はこの二つの巨大社中の票の行方が全体を動かします。でも社中間での勢力の消長というだけで、一般会員を含めた自由移動で無い事は現在の執行部のメンバーを見れば分かるでしょう。
一般会員にしたら、良い事もさほど無いかわりに、会費は安いし強制も無いしで別に苦痛感も無いから敢えて反対もしない。でもハッキリ言って、もう先の展望が有るとは思えません。私がこう言っても何も変わらないし、それで抗議が出たりもしないでしょう。ですから、一般の人にしたら「アナタ達、勝手におやんなさい」なのです。
トコトンのドンズマリは来るでしょうが、もうしばらく先です。それまでは、このまま行くのでしょう。
台湾の亡命政権とも考えられる中華民国が広大な中国大陸と地球人口の20パーセントを代表しているというのは、どう考えても無理が有りました。台湾政権を大陸政権と交替させようというのは、アルバニアが言い出さなくても、その時点ではすでに世界の大勢でした。その中にあっても、国連の場で台湾擁護に奮戦したのが日本で、当時の反対勢力からも「立ち位置は違うが日本は敵ながら天晴れ」と称賛されたものです。
それが1年後には日中国交正常化ですからね。情況によって素早く変わり身する。これだから日本は繁栄できたのです。義理を尽くして、それで結果が出てしまったのですから、もう変われば良いじゃないですか・・・。
変わってしまった状況下にあって、頑固に過去にしがみつくのは高潔なんでしょうかね?それで多くの人が幸せになる?
私としたことが余計な脱線をしました。
日本三曲協会は私が会員になった昭和60年頃だと約1万人の会員がいました。「東京三曲協会」と揶揄されるように、どうしても東京周辺が中心です。もともと戦後の設立、運営にあたっては納富寿童と米川文子が力を発揮した関係で、この両者の流れが当時においては依然強い勢力を持っていましたが、時代は流れます。
組織形態が合理的で、なお新曲という人気ソフトを持つ宮城会と正派が昭和30年代以降、急激な膨張を示しました。宮城会は天才、道雄の在世中の10倍にもなりましたし、正派は宮城をも人数で上回っていました。昭和の終わりで、宮城が実数9千、正派が1万だったと私は把握していました。しかも、これは会員数であり、膨大なそれ未満の人数を抱えていました。
米川一門は名門ですが、会の人数ということでは、文子、敏子両社中を合わせても、正派や宮城会には遠く及びません。また納富の主宰する童門会は6百人でしたが、間もなく藤井治童を会長とする竹童社と真二つに分裂しましたし、もし都山が本格参入したならば一気に勢力分布は変わってしまいます。幸か不幸か京都に本拠を置く都山が東京中心の日本三曲協会には強い関心を示さなかったので、琴古の優位は動きませんでしたが、おそらく統一都山を率いた初代都山が生きていたら、友好社中である宮城、正派を引き込んで大きな勢力を別に形成したかも知れません。
これは私の全くの想像ですが、都山流楽会が日本三曲協会に一定の役割を認め、興味を持ち出したのは80年代初め。宮城会の強力な支援をうけた離脱会派の島原帆山が人間国宝になったことが契機だったと思います。正派の支持が有り、かつ宮城とも関係の良い山本邦山がいる以上は、座視することも無いということではないですかな?
「一票の重み」とは「数は力」ということでも有ります。理事は一般投票で決まりますからね。常任理事は理事の互選であり、主流派にならなくとも、上の立場の人にはいろいろとね、美味しい事も・・・。賞や勲章だってフリーで貰えると思っている人なんぞ、もういないでしょう。
ですから上の立場の人にしたら急激な勢力分布の変動は歓迎できないのでしょう。これは非難なんぞされるいわれのない、人間世界の当たり前の事です。
当時はまだ宮城や正派には日本三曲協会への新規会員の登録については制限が有りました。「そんなことは無い」と否定はしても周知の事でした。でも時間の経過と共に状況は変わって行きます。もう今はこの二つの巨大社中の票の行方が全体を動かします。でも社中間での勢力の消長というだけで、一般会員を含めた自由移動で無い事は現在の執行部のメンバーを見れば分かるでしょう。
一般会員にしたら、良い事もさほど無いかわりに、会費は安いし強制も無いしで別に苦痛感も無いから敢えて反対もしない。でもハッキリ言って、もう先の展望が有るとは思えません。私がこう言っても何も変わらないし、それで抗議が出たりもしないでしょう。ですから、一般の人にしたら「アナタ達、勝手におやんなさい」なのです。
トコトンのドンズマリは来るでしょうが、もうしばらく先です。それまでは、このまま行くのでしょう。
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