仕事の旬
- 2016/01/16
- 22:35
私は若い頃には周りの仕事を観察し、良いナアと思う仕事の経営者に話を聞くのが好きでした。これもセイゼイが25くらいまでで、それ以上の年齢になると経営者も警戒心を持つのか、気楽には話し相手になってくれませんや。別に自分でやるつもりは無く、マア興味本位ですよ。
それで私が見た1975年頃のボロいと思う仕事のベストは?
まずはサラ金。何せ金利が年108パーセントまで合法でしたから、原理的には最もウマく行くと10年で持ち金が600倍を越すのです。欠点は、トリッパゲレ、そして取り立てです。気の弱い者には出来ません。
次がパチンコ屋。今みたいに大型店はまだ無く、駅前や商店街の一角に、ほんの15坪程度で営業していた店がいくらでも有ったものです。この商売の欠点はともかくも商店街に構える必要が有ったし台も入れなくてはならないので、ある程度には金が必要だったことです。後は顔に傷の有るオカタとの付き合いですよ。
三番目が朝鮮焼肉屋。当時は相対的に価格が高く、仕入れ単価を知ると、文字通りぼろ儲けだった事が分かりました。何しろ料理しなくて良いのですからね。キムチもタレも当時から食材屋が有りましたから、気に入ったモノを仕入れるか、ブレンドする事も出来ました。
「言うほど楽じゃないよ。店は煙で汚れるし網や換気扇だってこうして毎日掃除してんだよ」。仲良くしていた焼肉屋のオバちゃんの言です。たしかに当時は無煙ロースターが普及していなかったですもんね。でも仕事ならそのくらいは当たり前。本当に厄介だったのは、実は当時はパチンコ屋の7割、焼肉屋の8割以上が在日コリアンでしたから、朝鮮焼肉屋をやると周りから朝鮮人だと思われたことです。これが、儲かると分かっていても日本人があまり参入しなかった理由の最たるものでしょう。
エッ、ピンと来ないって。ホントにピンと来なければ良い世の中になったということですよ。東映時代劇やヤクザ映画の悪役も5作に1作くらいの程度で善役を割り当てられていました。理由は子供や奥さんがイジメの対象になることです。「奥さんもか?」ってアナタ、当時は子供みたいなオトナがワンサカいましたぜ。クレイジーキャッツの植木等さん、知ってるでしょう。歎いてましたわ。何人もの大のオトナに「そんな無責任で世の中を渡っていけると思ってるのか」と真顔で意見されたとかで・・・。
こう言うの昭和50年代いっぱいまで有りましたかね。
これらは今では普通の仕事で、比較的小資本で始められるボロ儲けの期待できる仕事ではなくなりました。サラ金は金利制限と銀行の参入。パチンコは大型化と頻繁の新台との入れ替え。焼肉屋はチェーン店の普及と価格の低下。どんな商売もシュンは20年有れば良いほうでしょうね。
製管の話にしますよ。
九州在住だったKSさん。昭和40年頃には大きな長持ち3つに作った尺八が満杯。推定300本。それが民謡ブームで火が着き、たちまち在庫空。家を鉄筋3階建に建て直しました。
HYさん。昭和50年代初めに20代半ばで東京に出てきてみれば、周りは素人に毛のはえたような琴古や民謡尺八の製管師ばかり。10年でビルを建てたのは、いくら抜群の技術者とは言え驚異的です。
STさん。エッ、この程度の尺八で?と言われながらも最盛期従業員20人。何を勘違いしたのか労働争議を企ててクビになった者までいました。今の二代目Yさんは真面目で腕も確かです。念の為。
NGさん。昭和50年代半ば、専商の依頼を受けていた時で10人くらいの従業員がいましたかね。
年間3000本の尺八を作って売った玉井竹仙さんについては今更言うまでもありません。それ以外でも上記これほどの人達がいたのです。しかも同じ様なケースをあと5人は挙げられます。
仕事の旬はすぐ過ぎ去ります。そして次の旬は予想は出来ても分かりません。しかも同じ形では二度と来ません。
それで私が見た1975年頃のボロいと思う仕事のベストは?
まずはサラ金。何せ金利が年108パーセントまで合法でしたから、原理的には最もウマく行くと10年で持ち金が600倍を越すのです。欠点は、トリッパゲレ、そして取り立てです。気の弱い者には出来ません。
次がパチンコ屋。今みたいに大型店はまだ無く、駅前や商店街の一角に、ほんの15坪程度で営業していた店がいくらでも有ったものです。この商売の欠点はともかくも商店街に構える必要が有ったし台も入れなくてはならないので、ある程度には金が必要だったことです。後は顔に傷の有るオカタとの付き合いですよ。
三番目が朝鮮焼肉屋。当時は相対的に価格が高く、仕入れ単価を知ると、文字通りぼろ儲けだった事が分かりました。何しろ料理しなくて良いのですからね。キムチもタレも当時から食材屋が有りましたから、気に入ったモノを仕入れるか、ブレンドする事も出来ました。
「言うほど楽じゃないよ。店は煙で汚れるし網や換気扇だってこうして毎日掃除してんだよ」。仲良くしていた焼肉屋のオバちゃんの言です。たしかに当時は無煙ロースターが普及していなかったですもんね。でも仕事ならそのくらいは当たり前。本当に厄介だったのは、実は当時はパチンコ屋の7割、焼肉屋の8割以上が在日コリアンでしたから、朝鮮焼肉屋をやると周りから朝鮮人だと思われたことです。これが、儲かると分かっていても日本人があまり参入しなかった理由の最たるものでしょう。
エッ、ピンと来ないって。ホントにピンと来なければ良い世の中になったということですよ。東映時代劇やヤクザ映画の悪役も5作に1作くらいの程度で善役を割り当てられていました。理由は子供や奥さんがイジメの対象になることです。「奥さんもか?」ってアナタ、当時は子供みたいなオトナがワンサカいましたぜ。クレイジーキャッツの植木等さん、知ってるでしょう。歎いてましたわ。何人もの大のオトナに「そんな無責任で世の中を渡っていけると思ってるのか」と真顔で意見されたとかで・・・。
こう言うの昭和50年代いっぱいまで有りましたかね。
これらは今では普通の仕事で、比較的小資本で始められるボロ儲けの期待できる仕事ではなくなりました。サラ金は金利制限と銀行の参入。パチンコは大型化と頻繁の新台との入れ替え。焼肉屋はチェーン店の普及と価格の低下。どんな商売もシュンは20年有れば良いほうでしょうね。
製管の話にしますよ。
九州在住だったKSさん。昭和40年頃には大きな長持ち3つに作った尺八が満杯。推定300本。それが民謡ブームで火が着き、たちまち在庫空。家を鉄筋3階建に建て直しました。
HYさん。昭和50年代初めに20代半ばで東京に出てきてみれば、周りは素人に毛のはえたような琴古や民謡尺八の製管師ばかり。10年でビルを建てたのは、いくら抜群の技術者とは言え驚異的です。
STさん。エッ、この程度の尺八で?と言われながらも最盛期従業員20人。何を勘違いしたのか労働争議を企ててクビになった者までいました。今の二代目Yさんは真面目で腕も確かです。念の為。
NGさん。昭和50年代半ば、専商の依頼を受けていた時で10人くらいの従業員がいましたかね。
年間3000本の尺八を作って売った玉井竹仙さんについては今更言うまでもありません。それ以外でも上記これほどの人達がいたのです。しかも同じ様なケースをあと5人は挙げられます。
仕事の旬はすぐ過ぎ去ります。そして次の旬は予想は出来ても分かりません。しかも同じ形では二度と来ません。
スポンサーサイト