琴古って?
- 2016/01/20
- 14:30
尺八の数有る流のうち最古のものは琴古流でしょう。ところで琴古って何?そうですねえ、ルーツをたどると黒沢琴古にたどり着く人達の集団。それ以外には思いつきません。
今は人がそんなことにに興味を持たないのですが、20年くらい前まではよく聞かれたものです。「琴古流の宗家って誰ですか?」。いませんよ。それが答えですが、イチオウの説明はします。
琴古流の宗家らしきもの、と言うより、そこの所属員相手には琴古流の全体宗家を称している家は有ります。荒木派の荒木家、荒木派の納富家、川瀬派の川瀬家です。
荒木家を宗家とする人、おそらく今では200人を切っていますでしょう。その他に、荒木派の正流は三世荒木古童から納富寿童に移動した。これが童門会の主張です。藤井治童が会の半分を引き抜いて竹童社を結成して、すでに25年以上経ちました。この竹童社の人は納富家が宗家であるとは認めていないでしょうから、したがって納富家の宗家も認定者300人はいないと思います。
そして川瀬です。たしかに琴古の8割以上は川瀬派ですが、川瀬家の竹友社以外には、同じ川瀬派ではあっても、川瀬家が流全体の宗家だとは思っていない。でによって、川瀬家を琴古流宗家とも言い難いです。竹友社は会員約500人、末端まで入れて千人いないはずです。
ここで当然異議が出ますね。「オマエは日頃、会員が10人なら弟子は3人しかいない、そう言ってるじゃないか」。ゴモットモ。ですが竹友社の場合、会員は初伝以上ですが、ここにハードルを設定していて、初伝は他流や他会派の準師範にも相当します。また、カルチャーで多くの人を教えているのも、私の知る範囲では竹友社の人が琴古では圧倒的に多いのですわ。そういう事です。
川瀬派というのは複雑な構造をしています。もともと存在していた琴古の独立流派を糾合して出来た派閥でもある、ですから結成の時点から参加会派は独立していました。川瀬家は言ってみれば盟主的な存在でした。
誰が宗家か?実はこれ法律上は決着が着いています。三世荒木古童と初代川瀬順輔が争った裁判で、昭和7年に判決が出ています。「琴古には全体を統括する宗家は存在しない」
ですから琴古では一定の規模の社中に成長すると独立会派になる、すなわち自分で免状を発行するケースが多いのです。何故?本気で聞きます?ヤボ。免状が出せてはじめて生活が出来るんですよ。
都山や上田からも独立流派は出ていますが、こちらは流派です。
琴古には宗家が存在しないのですから、独立しても別の流を名乗る必要が無いのです。ですから琴古流ОО会(社)宗家がイッパイ存在します。
それに独立にいたる経緯も、都山からの場合はもっと重くて切実ですね。初代中尾都山は所属員には頼もしく面倒見の良い存在であっても、独立した瞬間から巨大で恐ろしい壁として立ちはだかります。
昭和まで琴古流独立会派の当主達は概ね尺八専業者でした。教授産業としての尺八がヨタリながらも存続出来たのが、昭和の終わりまでです。
ところで、18世紀半ばの初代黒沢琴古の時は琴古流とは称していなかったらしいのです。初代の門人の宮地一閑が一閑流を名乗ったのが尺八における流の初めてのケースと言われています。それで琴古流も出来たようです。
そもそも流というものが出来たということは、この辺りから尺八が教授産業になったことを意味します。托鉢や実演産業では流なんぞは大して意味を持ちません。ですから、今のように尺八が教授産業から自分で楽しむ、あるいは演奏を鑑賞する実演産業に移行している時代には流は衰退するのです。
琴古には独立会派が、はたして幾つ存在しているのでしょうか。私が知らないのですから知っている人がいるとは思えません。何処も急激に衰退し、消滅した独立会派も多数有るはずです。でも一番多い頃だと百近く存在していたのではないですかね。
昭和30年代だと地方でも、名簿上ではなく実数で百人を越えていた会が、いくつも有りました。数十人規模の会なら数えきれなかった。
私も数えた事があるんですよ。けど諦めました。後から後から未知の会が判明してくるのと、とっくに無くなっていると思った会の人が家元無しの状態で存続していたりして。たとえ2~3人であろうと無くなったとは言えませんや。
今、尺八界の流や独立会派は機能としては停止した所が大半です。もう15年もすると尺八界の全体像はより鮮明になります。
今は人がそんなことにに興味を持たないのですが、20年くらい前まではよく聞かれたものです。「琴古流の宗家って誰ですか?」。いませんよ。それが答えですが、イチオウの説明はします。
琴古流の宗家らしきもの、と言うより、そこの所属員相手には琴古流の全体宗家を称している家は有ります。荒木派の荒木家、荒木派の納富家、川瀬派の川瀬家です。
荒木家を宗家とする人、おそらく今では200人を切っていますでしょう。その他に、荒木派の正流は三世荒木古童から納富寿童に移動した。これが童門会の主張です。藤井治童が会の半分を引き抜いて竹童社を結成して、すでに25年以上経ちました。この竹童社の人は納富家が宗家であるとは認めていないでしょうから、したがって納富家の宗家も認定者300人はいないと思います。
そして川瀬です。たしかに琴古の8割以上は川瀬派ですが、川瀬家の竹友社以外には、同じ川瀬派ではあっても、川瀬家が流全体の宗家だとは思っていない。でによって、川瀬家を琴古流宗家とも言い難いです。竹友社は会員約500人、末端まで入れて千人いないはずです。
ここで当然異議が出ますね。「オマエは日頃、会員が10人なら弟子は3人しかいない、そう言ってるじゃないか」。ゴモットモ。ですが竹友社の場合、会員は初伝以上ですが、ここにハードルを設定していて、初伝は他流や他会派の準師範にも相当します。また、カルチャーで多くの人を教えているのも、私の知る範囲では竹友社の人が琴古では圧倒的に多いのですわ。そういう事です。
川瀬派というのは複雑な構造をしています。もともと存在していた琴古の独立流派を糾合して出来た派閥でもある、ですから結成の時点から参加会派は独立していました。川瀬家は言ってみれば盟主的な存在でした。
誰が宗家か?実はこれ法律上は決着が着いています。三世荒木古童と初代川瀬順輔が争った裁判で、昭和7年に判決が出ています。「琴古には全体を統括する宗家は存在しない」
ですから琴古では一定の規模の社中に成長すると独立会派になる、すなわち自分で免状を発行するケースが多いのです。何故?本気で聞きます?ヤボ。免状が出せてはじめて生活が出来るんですよ。
都山や上田からも独立流派は出ていますが、こちらは流派です。
琴古には宗家が存在しないのですから、独立しても別の流を名乗る必要が無いのです。ですから琴古流ОО会(社)宗家がイッパイ存在します。
それに独立にいたる経緯も、都山からの場合はもっと重くて切実ですね。初代中尾都山は所属員には頼もしく面倒見の良い存在であっても、独立した瞬間から巨大で恐ろしい壁として立ちはだかります。
昭和まで琴古流独立会派の当主達は概ね尺八専業者でした。教授産業としての尺八がヨタリながらも存続出来たのが、昭和の終わりまでです。
ところで、18世紀半ばの初代黒沢琴古の時は琴古流とは称していなかったらしいのです。初代の門人の宮地一閑が一閑流を名乗ったのが尺八における流の初めてのケースと言われています。それで琴古流も出来たようです。
そもそも流というものが出来たということは、この辺りから尺八が教授産業になったことを意味します。托鉢や実演産業では流なんぞは大して意味を持ちません。ですから、今のように尺八が教授産業から自分で楽しむ、あるいは演奏を鑑賞する実演産業に移行している時代には流は衰退するのです。
琴古には独立会派が、はたして幾つ存在しているのでしょうか。私が知らないのですから知っている人がいるとは思えません。何処も急激に衰退し、消滅した独立会派も多数有るはずです。でも一番多い頃だと百近く存在していたのではないですかね。
昭和30年代だと地方でも、名簿上ではなく実数で百人を越えていた会が、いくつも有りました。数十人規模の会なら数えきれなかった。
私も数えた事があるんですよ。けど諦めました。後から後から未知の会が判明してくるのと、とっくに無くなっていると思った会の人が家元無しの状態で存続していたりして。たとえ2~3人であろうと無くなったとは言えませんや。
今、尺八界の流や独立会派は機能としては停止した所が大半です。もう15年もすると尺八界の全体像はより鮮明になります。
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