評論家
- 2016/01/21
- 17:33
尺八の評論家っていたのでしょうか?モチロン「評論家」という肩書は自称ですから、理屈の上では誰が名刺に刷っても良いわけですが、そういうことでは無く、それが業界単位で認められているという意味での評論家ですよ。
私が知る過去においてはいなかったのですが、もっと前、尺八がズット盛んだった時代にはいたのでしょうか・・・。いないでしょう。いたら尺八もここまでオチブレルことも無かったと思います。
もともと評論家というのは批評するプロですから、それだけの判定力が無ければなりませんし、それを伝える能力も必要です。尺八の場合、その類の事を邦楽学者がやってはいますが、評論とは違います。
その人達は尺八以外の邦楽器、市場の大きい箏や三弦が評論のタネであり、尺八は余技に過ぎません。その為、志村哲先生のような例外を除いて、まず尺八を実際にやったことがないので、一流プロの使っている高度テクは、的確に決まったか、それ以前に何が起こったか分からないでしょう。
でも、邦楽の評論の場合、基本的に誰も真剣に読まないので必要なのは肩書だけです。ОО大学教授、少なくとも講師の肩書は是非とも欲しい、と言うより無ければパンフ原稿の依頼が来ない。
この演奏会のパンフに載せる原稿が現在の尺八界が学者さんに出せるホボ唯一の仕事といって良いでしょう。だから批判記述など無いのが当たり前です。冗談抜きで言いますが、これまで尺八の演奏に関する学者の批評で感心したことって有りますか?
たとえばスポーツなんかですと現役を退いた元選手が評論をやることが多いですね。でも尺八は引退って無いに等しいです。それに、好き嫌いが先に立ってしまって評論という感じにはならないでしょう。プロ、特に琴古の大家となると、はたして派毎によって異なる奏法の違いを容認しますかね。
何より世襲や老齢になっても現役を続行出来る世界の人の、しかも当事者とあっては、その評論が外部の人や外国人に信用されますでしょうか?口での言いくるめは「伝統文化」ですから、一概に悪いとは言えませんが、それがある範囲で納得できるようになるには時間と理解力が必要です。初めから邦楽家の言う事を信じている純粋な人は別ですよ。
良い悪いで無く、外部の人間は、「どうでも良いけど変」、あるいは「その程度のモノなんだ」と思うと私は言ってるのです。
こういう点にも正直に言及しなければ評論家ではなく、結局は業界内でのみ通用するだけの提灯持ちだと評価されます。
昔は尺八を吹く大学生も、音楽家評論家が尺八について言及している著述は読んでいましたけどね、尺八って切り口が違うと思うのです。純粋に音楽だとして聞けば、手やバランス、音程とかで必然に疑問符がつく所は多々有りますよ。その「伝統としての必然」にも目がいかない評論もまた駄目ですね。
市場として尺八は評論して生活が出来るはるか以前の規模ですし、また評論を熱心に読む人もほとんどいません。けどね、確かな評論が無くて良いものでしょうか?私の若い頃は、演奏会が終わると会場近くの安酒場で今聴いた演奏会の批評でしたわ。皆が「にわか評論家」になって口角泡を飛ばしてね。
当時の議論を録音していて今聴いたら、吹き出すかするでしょう。その頃の者達でプロになって今も尺八界にいる人間も多いのですが、いかんせん評論は技能ほど進歩したとは言い難いですね。だって、当時も今も評論家というものがいないのですから、受け売りをしたり指導を受けたり出来なかったのです。
そういうのだと何時まで経っても尺八村の中だけの同好会です。これから尺八は邦楽の枠を離れて行きます。こういう時代には外部世界への発信力を持つ評論家が欲しいですね。変革期は、そのただ中にいる人間には見えていない景色が多いのです。
私が知る過去においてはいなかったのですが、もっと前、尺八がズット盛んだった時代にはいたのでしょうか・・・。いないでしょう。いたら尺八もここまでオチブレルことも無かったと思います。
もともと評論家というのは批評するプロですから、それだけの判定力が無ければなりませんし、それを伝える能力も必要です。尺八の場合、その類の事を邦楽学者がやってはいますが、評論とは違います。
その人達は尺八以外の邦楽器、市場の大きい箏や三弦が評論のタネであり、尺八は余技に過ぎません。その為、志村哲先生のような例外を除いて、まず尺八を実際にやったことがないので、一流プロの使っている高度テクは、的確に決まったか、それ以前に何が起こったか分からないでしょう。
でも、邦楽の評論の場合、基本的に誰も真剣に読まないので必要なのは肩書だけです。ОО大学教授、少なくとも講師の肩書は是非とも欲しい、と言うより無ければパンフ原稿の依頼が来ない。
この演奏会のパンフに載せる原稿が現在の尺八界が学者さんに出せるホボ唯一の仕事といって良いでしょう。だから批判記述など無いのが当たり前です。冗談抜きで言いますが、これまで尺八の演奏に関する学者の批評で感心したことって有りますか?
たとえばスポーツなんかですと現役を退いた元選手が評論をやることが多いですね。でも尺八は引退って無いに等しいです。それに、好き嫌いが先に立ってしまって評論という感じにはならないでしょう。プロ、特に琴古の大家となると、はたして派毎によって異なる奏法の違いを容認しますかね。
何より世襲や老齢になっても現役を続行出来る世界の人の、しかも当事者とあっては、その評論が外部の人や外国人に信用されますでしょうか?口での言いくるめは「伝統文化」ですから、一概に悪いとは言えませんが、それがある範囲で納得できるようになるには時間と理解力が必要です。初めから邦楽家の言う事を信じている純粋な人は別ですよ。
良い悪いで無く、外部の人間は、「どうでも良いけど変」、あるいは「その程度のモノなんだ」と思うと私は言ってるのです。
こういう点にも正直に言及しなければ評論家ではなく、結局は業界内でのみ通用するだけの提灯持ちだと評価されます。
昔は尺八を吹く大学生も、音楽家評論家が尺八について言及している著述は読んでいましたけどね、尺八って切り口が違うと思うのです。純粋に音楽だとして聞けば、手やバランス、音程とかで必然に疑問符がつく所は多々有りますよ。その「伝統としての必然」にも目がいかない評論もまた駄目ですね。
市場として尺八は評論して生活が出来るはるか以前の規模ですし、また評論を熱心に読む人もほとんどいません。けどね、確かな評論が無くて良いものでしょうか?私の若い頃は、演奏会が終わると会場近くの安酒場で今聴いた演奏会の批評でしたわ。皆が「にわか評論家」になって口角泡を飛ばしてね。
当時の議論を録音していて今聴いたら、吹き出すかするでしょう。その頃の者達でプロになって今も尺八界にいる人間も多いのですが、いかんせん評論は技能ほど進歩したとは言い難いですね。だって、当時も今も評論家というものがいないのですから、受け売りをしたり指導を受けたり出来なかったのです。
そういうのだと何時まで経っても尺八村の中だけの同好会です。これから尺八は邦楽の枠を離れて行きます。こういう時代には外部世界への発信力を持つ評論家が欲しいですね。変革期は、そのただ中にいる人間には見えていない景色が多いのです。
スポンサーサイト